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この世界はわかりにくい(わかりやすさの罪/武田砂鉄)

わかりやすさ、が過剰に求められるようになっている。
短いネタに過剰にテロップを入れて「はいここ笑うとこですよ」と教えるお笑い番組、わかりやすさの権化のような池上彰を崇める特番など、テレビ業界において特にその傾向は顕著だ。
これは、フリーライターである著者が、わかりやすさの妄信が社会に与える影響を綴った作品である。

1. わかりやすさの罪

情報が氾濫する現代、人は自分にフィットするものだけを選び、わかるものだけをわかろうとするようになった。そしてそれを、「自分は主体的に情報を摂取している」と勘違いしている。この状態が危険であると、著者は池上彰の著書から引用しながら述べる。

池上は32年間在籍していたNHKを辞めたあと、番組などで「池上さんはどう思いますか?」と聞かれて戸惑ったのだと言う。
「『自分の意見は言わないように』と封印してきたことで、『自分の意見』を持たなくなっていたのです。持てなくなっていた、と言ってもいいかもしれません。NHKで出来事をきちんと伝える、わかりやすく解説するということはやってきたけれども、『じゃ、俺はどう思うんだ』と考えることがなくなっていたということを実感したからです」

つまり、わかりやすい解説ばかりしていると、自分はどう思うんだ、と考えることができなくなるのである。

また、タレントがラジオで時間をかけて丁寧に話した言葉を、「時間がないのでシンプルに紹介します」と言わんばかりにテレビのニュースやネット記事がまとめてしまうことが多々ある。それは受け取られ方の違いなどではなく、ただの別物である

2. シェアした後のこと

私はこの池上彰の件を読んで、花王元社長・後藤卓也の言葉を思い出した。メモを残していたので引用すると、

情報を知っただけでは意味がない。それなのに情報を共有することばかりが先行しています。その情報を共有化して自分としては何をするのかが問われているはずですが、情報の共有化で逆に、主体者としての意識が弱まっているように思います。

というものだ。
Twitterで「#〇〇に反対します」というハッシュタグが氾濫するのを見るたびに、私はこの言葉を思い出す。シェアすること、「いいね!」やハッシュタグを利用して同意を表明すること自体が悪いのではない。それで何かをしたような気になって、思考が停止してしまうのが怖い。

3. わからないままでいい

「あいちトリエンナーレ2019」で、展示が中止された「表現の不自由展・その後」。芸術監督の津田大介によるコンセプト文にはこうあった。

世界を対立軸で解釈することはたやすい。『わからない』ことは人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ、その手段を取ることをハナから諦め、本来はグレーであるものをシロ・クロはっきり決めつけて処理した方が合理的だと考える人々が増えた。

個々人に差異があろうとも、それが合理的でなかろうとも、連帯できるのが人間であるはず。
他者の想像や放任や寛容は、理解し合うことだけでなく、わからないことを残すこと、わからないことを認めることによってもたらされる。あなたの考えていることがちっともわからないという複雑性が、文化も政治も、個人も集団も豊かにする。

AとBの選択肢を差し出されたとき、まず最初に「他に選択肢はないのか?」と考えてみてはどうか。

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