心以外は偽物だ(盗作/ヨルシカ)
私はもともと、CDを買うのが好きだ。
パッケージを開封し、歌詞カードの素材を手で確かめて、文字を目で追いながらスピーカーから流れる音を聴く。あの儀式がないと、音楽は作品ではなくデータと化すような気がしてしまう。おそらく感覚が古いのだと思う。
CDが売れないこの時代、アーティストはあらゆる手を使ってCDを雑貨化しようとしている。
オリジナルグッズをつけたり、DVDをつけたり、ライブチケットの先行に申し込めるシリアルをつけたり。
ヨルシカの3rdアルバム『盗作』の初回限定版には、約130Pの小説とカセットテープが付属している。しかしこれらは「おまけ」ではなく、アルバムのもつ物語の輪郭を浮かび上がらせるためのツールだ。
私は今回、CDを聴いて、小説を読んで、最後にカセットテープを再生した。
このために中古で購入したカセットプレイヤーの再生ボタンを押すと、懐かしいノイズの後にベートーヴェンの『月光のソナタ』が流れた。あたかも小説の登場人物が実在して目の前でピアノを弾いているかのような、不思議な緊張感に包まれた。
作品の世界観にずぶずぶと浸ってゆく時間は、至福そのものだと思う。
これは、ある盗作男の物語だ。
不幸な家庭で育った男が家を出て、空き巣をはたらくようになる。
家の下見に行った帰り道、公共施設から『月光のソナタ』が聞こえてきて、中を覗き込むと髪の長い女性がピアノを弾いていた。幼い頃にバス停で見かけて恋をしていた女の子との、偶然の再会だった。男は後日また施設に忍びこみ、見よう見まねで『月光のソナタ』を弾く。その瞬間、心の穴が満たされるような感覚を覚える。それを機に空き巣を辞め、音楽を始める。
クラシックや売れている音楽を分析して、コードやメロディを引用しながら音楽を作るようになり、それらはよく売れた。
盗作であったとしても音楽の美しさは変わらないと男は繰り返し主張し、自分が作った音楽が世間に広まることで、満たされていく。
今この瞬間も、世界中の人間が音楽をしているのだ。たった十二音階のメロディが数オクターブの中でパターン化され、今この瞬間にもメロディとして生み出され続けている。ならばあの名曲も、ラジオに掛かる流行歌も、この洒落たジャズポップすらも、音楽の歴史の何処かで一度は流れたメロディには違いない。
ラジオから流れるそれを一聴して美しいと思った瞬間があったとする。そこで鳴るコードが作曲者が考え抜いてひねり出したもの、過去の名作から引用したもの、その二つで感動した瞬間の、その価値は変わるのだろうか?他で使われた音だからとか、苦労して生み出したそれだからとか、作者の経験が何だとか、そんなものはただの情報に過ぎない。
男はピアノを弾いていた女性と結婚し、やがて彼女を失う。
満たされていた心にまた大きな穴が空いて、最後は自ら、音楽家として破滅の道を選んでしまう。
この作品に出てくる登場人物には、前作のエルマ、エイミーと違って名前がない。さらに盗作の手法が事細かに書かれているため、これはヨルシカの話…?と思わなくもないのだが、それについて言及するつもりはないとn-bunaさんがインタビューで語っていた。
作曲方法については分からないが、音楽に本物のオリジナリティは存在しないという主張は、n-bunaさん自身のものなのだろうと思う。
私はこの主張に概ね同意する。
創作をする人間は必ず先駆者に影響を受けていて、例えば新進気鋭のバンドの音を聴いて、別のミュージシャンのエッセンスを感じることは日常茶飯事だ。その現象は音楽に限らず、映画や小説、絵画、舞台、ファッションなど、世界でヒットしているあらゆる創作物に先駆者の面影を見ることができる。
しかし「本物のオリジナリティ」について語るならば、オリジナリティという言葉を再定義しなければならない。
自分が美しいと感じたものをいくつも吸収して再構築するのは創作の自然な手法であり、もしそこにオリジナリティが認められないならば、何も見たことがない・聞いたことがない赤子にしか「本物のオリジナリティ」は宿らないことになってしまうからだ。
盗作男の言動には一貫して、人間らしい罪悪感や幸福感が欠如している。まるで機械のようだ。(実際、既にある音楽を分析して再構築することは、今やAIにだってできる。)
それでも最後に破滅の道を選んだのは、彼に心があったからだ。盗作か否かで音楽の価値は変わらないと繰り返し主張していたのは、そう言い聞かせることで自分を保っていたからなのだろう。
アルバム6番目の『レプリカント』の歌詞にある「心以外は偽物だ」というフレーズが、小説を読む前と後で、違う印象を帯びた。
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