常識の強さ(結婚の奴/能町みね子)
いずれするべき結婚をまだしていないという前提で、常に何らかの恋愛が起こり得るという前提で話を進められることにうんざりした著者が、「お互いの生活の効率性のためのような結婚をすればいい。自分の生活と精神を立て直すために、ゲイの誰かと恋愛なしで結婚すればいい」と思い立ち、実際にゲイの夫(仮)と生活する過程を綴ったエッセイ。
ちなみに著者は元男性の現女性で、夫(仮)のサムソン高橋氏はデブ専のゲイである。
自分とは境遇が何もかも違うにも関わらず、しんどくなるほど共感を覚える言葉が並んでいた。女の身体と精神をもって生まれた私の共感は著者を傷付けるだけかも知れないが、それでもこうして記録せずにはいられない一冊だった。
私は恋愛だとか結婚だとかに極めて大きな価値がある、しかも若いほどそれは成就しやすい、というあまりにも凡庸な観念を頭からこそげ落とせていない。
私はわずかな可能性を絵本のお姫さまのようにどこかでいまだに信じている。まだこの年齢なら、自分が何もしなくてもこの先何かあるのかもしれない、などと愚直に思っている。そして、年を取ることによって、当然それは薄く薄く削り取られていく。
客観的に見れば不愉快なほどに平凡な絶望だ。四十だろうが八十だろうが、恋愛や結婚をしていようがいまいが、輝かしい生き方をしている人はいくらでもいて、こんなことに縛られていること自体が時代遅れでくだらない。
ありふれた平凡な絶望とはつまり解決しようのない絶望だからありふれているのであり、考える作業は徒労でしかない。しかし、分かっていても徒労の穴からぬけられないのが一人の夜である。この穴をわざわざ掘って嵌まることが自傷的な快感になっている。
そしてこの潜考のすさびは、平凡な希望の完成形である「結婚」をする人たち全般に対する理不尽なルサンチマンに収れんしていき、私なりの「結婚」を進めはじめたいまになってもまだ私はこの吹きだまりからまるで脱出できていないことにむしろどこかホッとしてしまう。
誰かと暮らしていれば、こんなことを考えてしまう夜中の隙間を物理的に埋めることができる。
有益なる「無駄な会話」や、眼前を横切る他人の物理的な動きによって、消えてしまいたい気持ちに浸かってぬかるむ時間が強制的に平らかにされ、ぺっとりとした日常生活が展開される。
そのための「結婚」なのだ。
内容はもちろん、選ぶ言葉の鋭さにぐさりと抉られた章だった。
引用は避けるが、こだま著『夫のちんぽが入らない』について書かれた章には胸が痛んだ。物理的に夫と性行為ができない著者(こだま)が「子供をつくらない」という意思決定をするに至るまでの葛藤、その過程を知らない他者の無邪気な言葉、それに対峙しなくてはならないことの苦悩。「病院に行くとか他の手段もあるのでは?」という疑念は抱きつつも、私が感じ取ったのはそうした痛みの数々だった。
一方で能町氏は、恋愛や結婚に一切の疑問をもたず受け入れている前提で、こうした苦悩をぶつけられること自体に苦しさを覚えるという。
私たちが思っている以上に常識の力は強く、それを疑うことなくしてマイノリティの心は想像することさえできない。
他の作品も読まなければいけないと思った、久しぶりの作家だった。
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