主体性のないヒロイン(ミライの源氏物語/山崎ナオコーラ)
以前『美しい距離』を読んで、平易で美しい文章を書く人だなぁと思った山﨑ナオコーラ氏。
大学時代は源氏物語を研究していて、結婚して子育てをされている現在も「自身の性別はない」と主張するジェンダー論者であると今作を読んで初めて知り、意外に思った。
これは、源氏物語を現代の視点から斬って斬って斬りまくる斬新な作品だ。
例えば光源氏を、彼と恋愛関係にあった女性陣から紐解くと、かなりキモい人物像が浮かび上がる。
「可愛い幼女(紫の上)を自分好みに育てながら大人になるのを待つロリコン」「自分の母親と外見が似ているという理由で藤壺を愛するマザコン」等々。
時代背景が全く違うんだから当たり前でしょ、とも思うが、著者は当時の女性が受けた理不尽に怒っているのではなく、あくまで「こういう読み方もしたら面白いよね」と提案する立場だ。現実問題としての不倫が許せないからと、不倫小説を読まないのは勿体無い。(私もそう思う)
平安時代、女性は恋愛する以外に生きる術がなかった。
顔を見せないよう大人しく暮らしていたら、ある夜、突然知らない男が寝床に忍び込んできて、それをもって恋人関係が成立したと社会に見做される。現代のルールでは普通に強姦罪だが、当時、性犯罪などという概念はない。婚姻関係も今とは違い曖昧なものだったので、不倫も当たり前に行われていた。女性が恋愛をしない方法は、自殺か出家しかなかった。
それゆえ、現代の物語ではヒロインが主体性をもつのが普通だが、源氏物語のヒロインは揃って受け身だ。
例えば「桐壺更衣」は、桐壺帝に仕える更衣という役職の人、という便宜的なあだ名に過ぎず、原文では名前がない。(知らなかった…)
こんなに登場人物が多いのに、名前がなくても読者が物語を理解していたってすごくね?と思わずにはいられない。
文学は旅であり、目指すところも答えもないと、最後に著者は言う。
エンタメが飽和し、目まぐるしいスピードで新しい作品が出てきて、消費される昨今。どれだけの作品が、未来へつなげられるのだろう。
せめて自分は、消費ではなく参加する人間でありたいと思う。