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暴流のごとき三島の量子力学小説

天人五衰(豊穣の海・第四章) 三島由紀夫 1971

連作『豊穣ほうじょううみ』の完結編にして三島の遺作であるこの『天人五衰てんにんごすい』は、第三章『あかつきてら』に引き続き「見る・見られること」が裏のテーマになっていると謂えよう。
主人公本多繁邦ほんだしげくには、人の情事をひそかに「覗き見る」或いはあらわに「観賞する」という倒錯とうさく嗜慾しよくまみれていた。
また久松慶子や椿原夫人、あまつさえ鬼頭槇子も、淫靡いんびに「見る・見られる」視覚しかく世界の住人であった。
『暁の寺』の、白昼人目もはばからず「見られ」ながら悦楽えつらくの自慰にふける青年の描写は、三ページにも満たない須臾しゅゆなものであったが、棘茨きょくしのような蔭翳いんえいのこしていた。

そしてもう一人の主人公であり、美しくも自意識の塊のような安永透やすながとおるは、何をも見透す玲瓏れいろうたる目を持っていた。
汚穢おあい夾雑物きょうざつぶつすべてを濾過ろかしてしまうその天賦てんぷの目によってはる濃藍のうらんの水平線に揺蕩たゆたう貨物船の吃水線きっすいせんをも判読はんどくする器質的視力を享有きょうゆうするばかりでなく、養父の繁邦や許嫁いいなずけとなる浜中百子はまなかももこの心の奥処おくがまでことごと洞見どうけんする心理的視力をも持ち合わせていた。
その明徹さゆえ倨傲きょごうにも人心をほしいままもてあそび絶望へとおとしいれる透であったが、さかしまほこりを打ち砕かれ、自身も絶望のついに目をり抜くかの如くメタノールをあおって視力をうしなうに至る。

一方、ことに視力に於いて透とは対蹠たいしょ的存在と謂うべき、天稟てんぴんの醜さを持つ狂女絹枝きぬえ
絹枝の目は見えているようで世界を就中なかんずくおのれ自身を視ていない。
絹枝は己の醜悪さを視ようとせず、いやむしろ傷心によって瞑目めいもくすることを余儀なくされ、精神の安寧あんねいを保つため自身を端麗たんれいの美女である妄想の世界にひたっている哀れな存在であった。
つまり絹枝はその名が示す如く「かいこ」と呼応する。
その二つい十二の単眼各々たんがんおのおのは無用の飾り物であり、視ることを交配によって奪われた盲目の孅弱かよわい生き物である蚕を、絹枝は想起させるのだ。
そして蚕は絹絲けんしを吐きまゆを作る。
絹枝はその繭の中で誰にも「見られず」、透と倖せに生き続けるであろう。

それらの裏テーマは扨措さておき、『豊饒の海』全巻にわたる表のテーマとは輪廻転生であることは贅言ぜいげんを要しないだろう。
その根柢とした教説は仏教で説かれる阿頼耶識あらやしきであり、それは人の心にありながら宇宙の根源とされる唯識思想の重要な核である。

実は阿頼耶識を現代科学的に読み解くと、その真髄は量子力学と酷似すると言われている。
微視ミクロの素粒子から巨視マクロの宇宙史全容を解き明かす量子力学は、阿頼耶識の「つねに転ずること暴流ぼうるのごとし」と響鳴し合っていると理解できるのだ。
寡聞にして知らないが『豊饒の海』を量子力学の視座から論じる評論が数多あまたあることは想像に難くない。
私も『暁の寺』を読み進めながら何度も「量子力学だな」と独懐していたのである。

量子力学を簡潔に述べるのは困難を窮めるものの、誤解を怖れずその要諦を記述するならば、「有と無はそれを観察するまでは重なり合った状態にあり、観察することでその有しくは無が確定する」というものだ。
つまり存在とは、「観察する」すなわち「見る」までは截然せつぜんとしない曖昧なものであるが、ひとたび「見る」ことでたちまちその的皪てきれきたる姿を赫奕かくやくと現出するのである。
「見る」ことができるからこそ、存在が顕然けんぜんと保証される。だから繁邦は転生者の証左である脇腹の黒子ほくろ拘泥こうでいし、ジン・ジャンや透の裸体を執拗しつように見ようとしたのだ。

俯瞰すれば、輪廻転生そして阿頼耶識と「見る・見られること」との表裏のテーマは、量子力学という千尋せんじんの架橋により一体の円環を織りなしていたと断ずることができよう。
量子力学の解釈がいまもっ茫々ぼうぼう覚束おぼつかない時代に、矢をつがえた猟師のように核心を射抜き、それらを攪拌し物語へ昇華させた三島の構築力には、驚天の戦慄しか禁じ得ないのである。

では絹枝が作り出すであろう二人の棲み家となる繭に想いを馳せよう。
その繭はまるで量子力学に於いて最も有名な思考実験であるシュレーディンガーの猫が入れられたはこを彷彿とさせるのだ。
透を独占して嬉々としていた絹枝と、盲唖もうあしかばね同然となった透との、誰からも干渉されない爾後じごの半生は、シュレーディンガーの生きている猫と死んでいる猫が重なり合った「量子ゆらぎ状態」を投影しているようではないか。
絹枝は繭の中で透を守りかしずきながらも、誰からも見られずに高貴な佳人を演じおおせるに違いない。
そのかたわらで”安永”透は、果敢はかなく夭折ようせつする運命の二十歳を越えて、“安“らかに“永“くやすみ続けるであろう。

しかして量子力学はその波動方程式の展開から、多元宇宙マルチバースを要求する。
つまり宇宙・世界は無限に存在するのだ。
そう、世界は無限に存在しなければならないんだ!
無論これは滅しては現れる因縁の変化を表す阿頼耶識そのものだ。
それゆえ、透が真に転生者か否かをただすことはあまり意味がない。透が転生者である世界と転生者でない世界とが、驟雨しゅううもたらす黒雲の如く糢糊もことして重なり合っているからである。
そしてまた、本作『天人五衰』の象徴する色彩アクセントカラーが何なのか、白なのか、濃紺なのか、透明なのかを議することも意味がない。前三作は夫々それぞれ、白、赤、黒であったが、本作は刹那刹那せつなせつなで変幻としながらおど陽炎かげろうの如く視認できない状態へと戻ったのだ。

勿論もちろん三島は異なる世界アナザーバースをこの物語の中で描き出している。
それは綾倉聡子あやくらさとこ遁世とんせいする奈良の月修寺である。
月修寺が異境であったため、清顕も繁邦も病軀びょうくであったものの、そこへ参着するためには通過儀礼のような命を賭するはげしい辛苦を強いられたのであった。
その道程を辿たどりながら、清顕は「馴染みない世界に『この世』であろうか」と疑問を呈し、繁邦は「現実に自分の身がここにあることをほとんど信じない」といぶかったのである。
二人は遼遼とりょうりょうへだたる境堺を、不知不識しらずしらずまたいでしまったことを感じていたのだ。

さらにこの月修寺が、繁邦らが営む世界と異なっている点は「見る・見られること」が意味をなさないことであろう。
この地で視覚的に起こったこと、人の挙動や姿形は、清顕や繁邦には何の影響も与えなかった。
すべては会話と説法により成立していたのである。
つまり月修寺は「話す・聞く」聴覚的世界のような気がしてならないのだ。

老尼となった聡子は、あれほど恋慕した清顕のことをまったく憶えてはいなかった。
これは彼女が記憶を閉じてしまったのでも、嘘を付いていたのでもなかった。
ただ本当に知らなかったのだ。
なぜなら世界がたがえていたからだ。
きっと彼女は、清顕とは決してうことがなかった世界の聡子だったのだ。
聡子は耳のよく聞こえる“さと“い「話す・聞く」聴覚世界の住人なのだから。
れではまた


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