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何を着たらいいかわからない

心地よい人間関係を保つのに、相手との距離感は重要だ。

思い返せば、幼くみえてしまう同級生たちに、自分をどう合わせたものかと戸惑うことが多かった小中高。

群れないでいるのがラクなことはわかっていたが、集団の中でそれはデメリットばかりに思われた。

同世代としっくり馴染むことは難しかったのだけれど、グループ行動などで自分がはみ出さないように、なるべくみんなと同じように合わせようといつもどこか頑張っていた。

でも、頑張って「今日、帰ったら一緒に遊ぼ」と誘ったのに
「じゃ、〇〇ちゃんも呼ぼう」と返されて
私じゃつまんないんだと気づいてしまったり、

「昨日、〇〇ちゃんと〇〇に遊びに行ったんだよ」
なんて聞くと
私は誘ってもらえなかったんだと落ち込んで
やっぱり自分は誰とも仲良くなれない気がした。

そのうち
「今度、家に遊びに行っていい?」と言われても
その「今度」はどうせ来ないと思うけど、
「いいよ!」と満面の笑みで応える。

大人になってからも「自分の心地良さ」と「相手の心地よさ」の温度を模索して言葉の着ぶくれと薄着を繰り返す。

「あなたと話していると疲れる」と困惑されるのはまだましなのか?それとも「あなたは他人に興味がないんでしょ」と言わしめるのか?

ムダに増えた言葉の数は胸の奥に押し込んで溜まって行くばかり。

人の親になって『親同士』という新しい場面を迎えても、ため込んだそれらの出番はまるでなく、その場しのぎの取り繕いを繰り返すばかり。
だから親しい人も出来ようはずがない。

だが一方で、教師や上司からはいつも「コミュニケーション能力」や「対人能力」の高い評価を頂いた。

何を見てそう捉えたのか、その評価がしっくり来たことなど一度もないんだけれど、そう見えるのならそれでいいやと、そういうフリを装った。

違うんだけどなあと思っても、違和感を口にすると疎外感をより大きくするだけの気がして、周りから与えられる上着をありがたく受け取った。

その上着は自分に似合っていると本当は思えないけど、「似合ってないよ」と言われないなら、それでいい。
大人になるとはこういうことなのだと信じた。

信じて年中その上着を着続けて、身体は正直にアレルギー反応を出したけど。


「私は人見知りだし、実は人との距離感がわかんないんだよね」

たまに冗談っぽく違和感を口にしてもみたけど相手にされず、いつも冗談のまま笑って終わり。



本当は「辛い」って言えばよかったのかもしれない。
でもこういう気持ちのことを「辛い」というって知らなかった。

こんなもんなのかなあと諦めたり、我慢したりして折り合いつけるうち、何度も季節は移ろって。
いつまでも暑くないし、寒いと凍えそうになってもまた春は来た。


自分のワードローブにはこれしかなくて、そもそも常にベストなコーディネイトなんて無いんだよと、諦めることもうまくなった。

とはいえ、ほしくなくなったわけではない。

やっぱり『着ているもの』と『体温』が調和する心地良さがほしい。



彼岸が過ぎ、厚手とはいえ、ガーゼ素材の掛け布団ではちょっと寒い日がここ数日増えた。

半そでTシャツだと二の腕がひんやり冷たい。

コットンの七分袖を羽織ってみるけど、動いていると今度はその保温性がちょっとうっとおしくなってくる。
かといって、シャリ感のあるスケ素材のカーディガンはスースーする。

起床からまだ数時間なのに、何のお色直しかってほど、着たり脱いだりしている。

あぁ~も~、着るものがない~…

はい出た。
毎年恒例のセリフ。

季節の変わり目といえばこのフレーズ。

毎年言ってるけど、じゃあ去年の私は何を着てやり過ごしたのだろうか。
おととしは?
その前は?

毎年、謎。

冷えるよりはいいかと上着を羽織りっ放しで結局、汗ばんで冷えて体調を崩しそうになる。

変りやすいこの時期の気温差にしっくり来るコーディネイトが私にはわからない。

しっくり来る洋服はどこにもない。
その感覚を求めてあれこれと中途半端な衣類が増えて行く。


私はいったい何を着てこれまで凌いで来たのだろうか。


こんなに長く生きて来て、
それなりにたくさんの洋服も持っていて。

本当に必要なものは何も持っていないんじゃないの?
何を着ればいいのかもこのままわからずじまいなんじゃないの?


・・・

そんなことを考えていたせいか、今日はさらに肌寒くて、そして暑苦しい。







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