思考するタコ O Romeo,Romeo!Wherefore art thou Romeo?
noteに書き始めて3か月半がたつ。自分の書くものはどうやら「純文学」に属するらしいと気が付いたのが30半ば。ふむ。ならば純文学系文芸誌に投稿してみましょう。あれからずいぶん月日が流れた。純文学系文芸誌や純文学系各種小説賞に複数回応募した。一度か二度か三度くらいなにかの賞にひっかかりそうになった記憶があるがあれはいつのことだったのかなにしろ月日がびゅんびゅん音をたてて(実際は音などしないが)過ぎてしまったため、自分がなにを書いてきたか、つまりなにを考えて現在に至るのか、よく理解していない。
ときおりnoteのイラストや写真を眺めて過ごす。多才なクリエイター諸氏の作品に触れるうち「わたしはほんとうはえをかきたかった」「えがかけないからしかたなくぶんしょうをかいている」という幼児の心が芽生える。こんな可能性はないか?ほんとうはピカソは原稿用紙500枚を使って言葉で戦争の愚をしたためたかった、が、天は彼に絵画の伝道師としての役割を授けた、ゆえにピカソは仕方なく「ゲルニカ」を描いたのだ。
ピカソの「泣く女」を1時間じっくり鑑賞すれば、女が「泣く」ことの単純と絶望をしみじみと味わえる。ピカソの「泣く女」と同じ効力を言葉に求め、あるいは詩を書こうとしたところで、果たしてあの絵に匹敵する情緒と無意味を言葉は表現可能だろうか?
私が若い頃心酔した小説に「ブリキの太鼓」がある。作者ギュンター・グラスには美術の才もあり多数の版画彫刻を遺している。「ブリキの太鼓」を読むと「才能」とはなにか、がわかる。才能は基本的に「人迷惑」であり、或ることしか考えられない、それしか出来ない人間が仕方なくそれにこだわり続ける行為から生ずる。ブリキの太鼓にはオスカルという名の永遠の三歳児が登場する。オスカルの祖母はジャガイモ色の七枚のスカートを重ねてはき、オスカルの祖父は放火犯としての輝かしい過去から逃げる際に七枚のスカートの一番内側に姿を隠し、こうしてオスカルの家系は七枚のスカートの一番奥から次世代へと連なるのだ。永遠の3歳児オスカルはブリキの太鼓を用いて悪のビートを叩き出す。花瓶は割れるガラス窓は粉々に砕ける、で、どうなる?この長編小説、どんな話だっけ?いや、よく覚えていないのだよ。
「怒りの葡萄」も「風車小屋だより」も「ヴェニスに死す」もこうしてみると、いったいどんな話だったのか、ほぼ覚えていない。
ほぼ覚えていない文学経験をもとに、今日もなにか「純文学系臭」のする文章を編もうとしている。蜘蛛一匹を想う。蜘蛛はみずから糸を吐いて糸の巣を作りそこで獲物を待ち構えるのだ。ひとりの人間が自分の魂から言葉を分泌しそれを自分なりの工夫で作品という名の罠にしつらえるのとどこか似ていないだろうか。
思考するタコ。
タコが思考する。
どちらが好きかといえば、当然「思考するタコ」だ。
タコが思考する、と書いてあったら、わたしはすぐさま「そう?それで?」と気取ってみせるだろう。
思考するタコ。と書いてあったら、ほう、どんなタコかしらん、くらいはちらと考える。
思考するタコは蛸壺が好きだ。いちにちじゅう蛸壺に在り、自分はどうしてタコであり、蟻ではないかを考える。タコに性別があるのか、タコが恋愛するのかをわたしは知らないが、蛸壺内での思考に飽きた雄のタコは蛸壺から海中に這い出して一本一本の足をじゅんぐりに揺らし、色っぽい雌タコにからみつくための訓練に興ずるかもしれない。
思考するタコは思考と恋のほかにすることがない。
同じことが人間にもいえる。
人間が思考する。
思考する人間。
人間が思考するのはほぼ宿命なので面白くもなんともない。が、思考する人間は実はそんなにはいない。その実はそんなにはいない「思考する人間」の98%がおそらくはどうでもいいことを考えるのに一生を費やす。残りの2%は歴史を作る。
ウィリアム・シェイクスピアは多くの同胞が「どうやって生きていくか」に腐心する中、ラテンの言葉を古代英語に取り入れ、おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの?を書いた。ロミオとジュリエットは恋愛の古典となり後世の恋人たちのある種の手本となった。
パソコン、インターネット、Email、SNSの登場により万人が自分の意見なり創作なりをたやすく表現できるようになった。昭和の小学校の木造教室で「作文」を書かされ原稿用紙1枚を埋めるのに四苦八苦していた世代もネットに向かえばつらつらと言いたいことを発信できる。
そのたやすさに流されていないか、自省を含め常時不安である。小学校の教室で原稿用紙に立ち向かっていたあの頃の必死、わたしは、なのか、私は、なのか、行ったなのか、行ってしまった、なのか、わからない、なのか、理解できない、理解したくない、なのか、ひとつひとつの言葉につまづき、教師の添削に不満を持ち、こんなことを言いたくないけれどあえて書く、あるいは本当はこう表現したいところをあえてぼかす、HBの鉛筆を握りしめ自分なりの試行錯誤に没頭していた幼い心を、わたしはどこかへ置き去りにしていないか。
そう思って久しぶりにシャープペンシルで文字を書いてみた。試行錯誤、これが漢字で書けない。錯誤が書けない。いちおう日本人なのだが。それは、まあいい。
ときおり純粋を拾おう。
思い出したようにさりげなく
初心を拾おう。
慣れること
悟った気になること、
やつれること、
汚れること。
案外たやすい。
積極的にあるいは意図的に
純粋を探そう。
古代の真珠の寝息に耳をそばだてるように
感受性をなるべくでいいから尖らせて
なにも知らない赤子にとって
母の乳と
地中海のさざ波とのあいだに
さほどの差異はないのだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?