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【感想文】世界の隙間をうめる本 〜シーダーオルアン〜

【ネタバレは含みません】
シーダーオルアンの「一粒のガラス」を読んだので、その読書感想文を書こうと思う。特に女性を描いた後期作品は素晴らしかった。(一部作者の思想が剥き出しになる作品のため、どうしても歯切れが悪くなるのはご理解いただきたい)


さて、これは世界の隙間をうめる本だ。
令和の日本ではその斬新さをまるごと体感するのは難しかった。肌感覚で当時のタイの内情を理解できないからだ。タイ語もわからない私にとって、タイは遠い場所にある。


しかし、世界に取りこぼされ、人々に無視されている者たちへの眼差しだろうということはよく分かる。それはある意味で衆生への眼差しに似ている。システムは人をすり潰す事で別の人を生きながらえさせている、というのが彼女の主張だ。それは歴史においても脈々と散見されるテーマである。だから今読めば、彼女の作品にはどことなく懐かしさがある。前期作品の労働者などは特にそうだし、女性は社会において生きづらいなんて、今やそれを言わない人はいないくらいである。世間でよくある話を、よくある言葉で書いている。だが、「おふくろの味」を求めてレストランに行く人はいなかった。レストランから台所へ文学を引っ張ってきたというその点で、少なくともこの物語群は世界の隙間をうめる役目を果たしている。声を持たない者に言葉を持たせ、俎上に載せたのだ。


しかし、逆に言えばそこで終わりである。事件現場を提示された読者は、自らの頭で考えなければならない。『からみあう蛇』の最後は疑問文が連続するー『加害者は誰?』『加害者は、誰?』悲しい話を聞いて「かわいそうですね」で終わらせようとする者に、おそらく作者はもう一歩踏み込むことを欲している。「お前たちの平穏なしあわせは死屍累々の上に立っている」と言われて罪悪感を抱かない人はいないだろうが、だからといって手っ取り早い方法に飛びつくのは論外である。作者の理想は透けて見えるが、そこまでの道のりは本当に適切なのか。歴史は不正解は教えてくれるが、正解は教えてくれない。そもそも答えがあるということすら、幻想にすぎない。『加害者は誰か』ということに、はっきりとした答えはないのだろう。それでも世界の隙間から、作者はずっと問いつづける。

もう一点書き添えるならば、シーダーオルアンの作品は夢が無く現実的であるとされているようだが、私には夢の種類が違うだけに感ぜられた。
所謂夢見がちな少女の幻想的な作品というのは、過去からの延長としての夢である。「こんな風になりたい」のこんな風とは、彼女たちにとっての理想である。素敵なお城で王子様に愛されるような、過去からの材料で作られた憧憬だ。例えて言えば、卵が鳥になる夢を見ればその身体が黄身と白身で出来ているようなものだ。現実社会を受け入れた上で、自分個人の現実を否定している。

一方、シーダーオルアンの夢は、未来から逆算された夢である。彼女の中にはおそらく確固たる理想があり、前期の作品ではその理想が剥き出しに語られる。後期の作品になると変化が見られ、理想そのものではなく理想と現実を比較した際に明らかになる差異が描かれる。彼女は先に鳥を夢想する。その上で、卵が骨や羽で出来ていないことを訴えるのだ。現実社会そのものを否定している夢だ。姿の違う鳥ではあるが、どちらも卵の夢である事にかわりはないだろう。


東南アジア文学に殆ど触れてこなかった私には、今回の読書体験は新鮮な衝撃だった。欧米文学や近代作品の多くの根底には聖書の大河が流れている。それに慣れきっていると、違う河に触れた時の驚きは大きかった。折角なので、これを機に作品地域の幅を拡げてみたいと思った。いやはや、人生が足りない。


追記
肩をすくめるアトラス/アイン・ランド と合わせて読んでも面白いかもしれない。別の視点が得られると思う。そして世の中のままならなさに頭を抱える羽目になる。

(前朔)


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