記事の推敲
ここ最近の私のホットな話題として記事の推敲がある。
たまたまなのか、巡り合わせなのか分かりませんが、文學界 2023年10月号に『推敲の時間』というエセーが載っていた。
タイトルだけで今の私にピッタリな内容かも?と直感で感じた。
読んでみると、まさにその通りでドンピシャだった。
著者の小沼理は「少し前まではしっくりこない文章を良くしていくことが推敲の最大の価値だと思っていた(p118)」と言っており、そのゴールが「明確な一つの理想、一つの流れに向かって収斂していくべきなのだと思い込んでいた。(同ページ)」と書いている。
どちらにも納得できるし、私もそう思う。推敲の意味に関しては著者の思い込みの中にまだ私はいる。
しかし、著者は「良い」というのは誰に対して「良いのか?」と考えるようになる。それは文章を書き・直し・発表する枠組みに従っているだけということに落ち着く。
この理解の仕方はよく分からなかったが、文章を推敲するのは文章を良くするためではなく、文章を発表するまでのプロセスとして推敲が含まれているからやっているだけだと理解した。
それから推敲の時間は楽しくなったという。というのも、話を収斂させるということから解き放たれたからだ。
この収斂させることを辞めるというのは私の考えと近いように感じる。収斂させようとするとどんどん書くことが狭まっていくように感じる。もちろんゴールを決めて書くこともあるけれども、書いている内に脱線していくことが多い。
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以下の文章を読んだ時にまるで私のnoteの毎日更新だと思った。
推敲に終わりはないし、完成もその時での完成でしかなく、完璧な完成はない。これがいいかも(思いつき)と思ったことを選んで書いていく。それが紡がれてそれっぽい形になる。
自分ではこれでいいと思っていたことに対して後押しを貰えたような気がする。