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新訳「国富論」 ぜひ学生時代に読んで欲しい

大作を読み切った時の疲労感・達成感よりも、どうしてこれまで読まなかったのかという後悔の念が最初にわきました。学生時代に読んでおくべきでした。

アダムスミスの「国富論」と言えば、社会の教科書には必ず登場し、「見えざる手」として知られている古典中の古典です。

この本の原題は「An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations」で、「諸国民の富の本質と原因に関する研究」というように、国家経済論と経済の歴史書です。

そして、「見えざる手」というのは、本の中で1箇所しか記載されていません(第四編第二章)

he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain; and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention.

「彼は、たんに自分自身の安全を意図しているにすぎず、その生産物が最大の価値をもつような方法でその産業を管理することにより、彼は、自分自身の利益を意図しているのであって、彼はこうするなかで、他の多くの場合と同様に、見えない手に導かれて、彼の意図にはまったく含まれていなかった目的を促進するのである」

「アダムスミスの『神の見えざる手』」という場合もありますが、「of God」という箇所はありません

なぜ、このように本のわずか一文が国富論全体を表すようになったのでしょうか。

訳者によれば、それは「国富論」に対するその時々の経済政策によって評価のポイントが少しずつ違ってきたからだ、とします。
20世紀半ばに「市場の効率性」を強調する産業組織論として解釈され始め、市場万能主義の主張に利用されるようになりました。
効率性の観点から「規制緩和」、自由競争の復権が唱える考え方が台頭し、アダムスミスの思想は、市場経済は自由競争にしておきされすれば、神の「見えざる手」に導かれておのずと最大かつ効率的な生産を実現するから、みんなが幸せになる、という解釈を生んだのです。

ちなみに、何故今回新訳本の出版に至ったか、興味深いことが「訳者あとがき」にあり得心しました。

”英語で書かれたものの「意味」の理解を、母国語のそれと同じレベルにすることはほとんど不可能である。スミスが用いた言葉はあくまでも当時の「概念」である。日本語そのものも急速な科学技術の進展とともに変化し続ける。要するに、世界史上の古典、人間と文化と社会を知るために不可欠な「世界の大思想」と呼ばれてきたものは、それが外国語で書かれたものである限り、世代を重ねるたびに、「新訳」が必要になるということである”

本書は、アダムスミス 国富論(上・下)講談社学術文庫 高哲男訳 2020年5月、によっています。 

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