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(2) 映画作家と時代性 勅使河原宏


 映画や映像作品に限らず、文学やアートなど、あらゆる表現された作品は、その時代の制約を受けている。映画作家が時代性に意識的ではなくても、無意識にその時代の特徴が作品に流れこむ。正面から作品論や作家論を展開するだけでなく、その作品に映り込んだイメージを見つめることで、そこから読み取れる50年代、60年代、70年代、80年代、90年代における特有の時代性がある。それらを読み解く方法を身につけてみよう。

【作例】 前衛とドキュメンタリーの時代



亀井文夫と勅使河原宏

 映画作家としての勅使河原宏が形成されるなかで、重要な役割をはたしたのが亀井文夫との関係ではないか。

 銀座に亀井文夫、山本薩夫、今井正らが出入りしていた新世紀映画という独立プロの事務所があり、そこで宣伝部の仕事をしていた親友の武者小路侃三郎が、勅使河原を連れていったのがはじまりだった。一九五五年、勅使河原が二八歳のときだ。すでに「青年ぷろだくしょん」で美術映画『北斎』(一九五三)をつくり、木下恵介の撮影現場で助監督をしていたところを、亀井から「一緒にやってみないか」と誘われたという。亀井の代表作となる『生きていてよかった』(一九五六)と『世界は恐怖する 死の灰の正体』(一九五七)に、勅使河原は助監督としてつくことになった。亀井は次のように振りかえる。

《ロケ中だって、なにも旅館に泊まれる場合だけじゃないから、労働組合の事務所を借りて宿泊したり…。またドキュメンタリー映画の製作は、整った脚本がない場合が多いから、この時も、長崎、広島の何十人もの被曝者を訪ね歩いて話を聞いてまわって、実社会のなまの現実から、既製の映画作りでは味わえない勉強をした。当然宏君も最初から荒海にもまれたわけですよ。》[註1]

 亀井文夫はドキュメンタリー監督として脂がのった時期だった。一作品ごとに異なる方法論を導入し、企業のPRがメインだった文化映画を、つくり手の作家性が刻印された「ドキュメンタリー映画」へと脱皮させようとしていた。『生きていてよかった』は戦後初めて広島と長崎の被爆者の証言をおさめながら、敗戦後の人びとが心情的に移入できる物語仕立ての作品だった。それに比して翌年の『世界は恐怖する』は、鳥や金魚やウサギに放射能を浴びせる動物実験のシーンから開けて、日本における核の拡散を科学的に解明していく作風である。なによりも亀井が「映画を製作するプロセスで露にする、現実に食らいついていく時の怒りに似た強烈な突っ込みに、僕は圧倒された」と勅使河原宏は書いている。[註2]

 勅使河原宏の初期作品が『北斎』や『いけばな』のような文化映画、『東京1958』(一九五八)のような集団製作の実験映画、記録映画的な『ホゼー・トレス』(一九五九)など多岐にわたるのは、日本のドキュメンタリー表現が自己を確立するべく模索していた一九五〇年代後半という時代と関係がある。それに加えて、同じドキュメンタリー映画といっても、作品のモティーフによってがらりとスタイルを変える亀井文夫の方法論が、勅使河原に影響を与えたという面もあるのではないか。

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