(結論)落合陽一のデジタルネイチャーは全体主義的洗脳であって何も新しく無くただ危険である。(落合陽一は無意識の重要性を理解していない)

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どもっ美学者母です。
昨日に落合陽一の「魔法の世紀」を読んで、
それを論考した文章を書いたのですが、
かなり長い文章になったので、
結論としてまとめます。
まぁとりあえず、
まだ読んでいない人は、
落合陽一の「魔法の世紀」を読んで、
この(結論)を読んでくださいwww
(結論)
落合陽一は人間にとっての無意識の重要性を理解していない。
逆に理解してデジタルネイチャーという思想を提起している。
という事になれば、
これは落合陽一自身がこの様に人間を洗脳します!!!
と宣言している本なのだと受け取れる。
さらにいうと、
そもそも落合陽一はヒューマニズムを否定している。
その上でデジタルネイチャーという提起をしているが、
それは「自然」では無く、
人為的恣意的に創造(フィクション)されたもので、
ネイチャーという言葉、
つまり「自然」という言葉によったレトリックにより、
落合陽一の人為性恣意性を隠した、
ある意味独善的な創造物(フィクション)である。
また私がツイッターで落合陽一に言説した。
「テクノロジーはスケールしなくては意味が無い」
という言説の応答として、
「魔法の世紀読めばっ」
という事で読んでみたわけだが。
落合陽一がなぜテクノロジーがスケールしなくても、
意味があるのだという思考なのかを理解できた。
それはそのテクノロジーが、
意識上にスケールしているということを意識しない、
それはこの「魔法の世紀」にも書かれているが。
つまり無意識にテクノロジーが、
スケールしていることが気づかないという意味で、
落合陽一はテクノロジーがスケールしなくても、
意味があるのだという読解を得る事ができた。
この様な落合陽一の思考スタンスから、
落合陽一の様々な問題が浮かび上がってくる。
それは冒頭に述べた「無意識」への無理解である。
人間にとって「無意識」とはある種その人格にとっての、
「自我」であり「個性」である。
それは例えば「洗脳」という文脈で、
「無意識」というものを考察すれば理解できる様に。
例えば「オウム真理教」は、
その「無意識」を「書き換える」事で、
その「人格」を「洗脳」し、
ある意味「人格」を変えてしまう事で、
「オウム真理教」の「教義」を信じ込ませたのだ。
その上で「信者」は、
「殺人」さえも「肯定」できる様になる。
これはある種の「全体主義」でもあるのだ。
「個人」という「人格」を無視し、
それは人為的恣意的に「無意識」を書き換える、
つまり「洗脳」し、
「個人」という「意識」を無くして、
その代わりに「全体」としての「意識」が表出する。
※添付図参照
そしてその「全体」、
つまりそれは「宗教」「国家」「会社」という、
ものに「主体」が転移する。
これこそが「個人」という「人格」を無くした、
「全体主義」なのである。
さらにその「個人」は、
無意識が人為的恣意的に書き換えられた事を、
「自認」していない。
この様なことを前提に考察してみると、
「デジタルネイチャー」という思想は、
ただ単純に「危険な思想」なのだ。
デジタルネイチャーの思想は、
例えば私が前述した、
様々な要素を持っており。
実際に落合陽一はそれを堂々と、
「魔法の世紀」で述べているのである。
これは私が飛躍妄想して言説しているものでは無い。
例えばテクノロジーと自然の融合とは、
まさに「無意識」への土足での「介入」であり、
人為的恣意的な「無意識」の「書き換え」、
それは「洗脳」である。
私たちは少なくとも自分の意志で、
あらゆるテクノロジーを、
取捨選択する自由がなければならない。
この様な事からも、
人間にとっての「無意識」の重要性を、
落合陽一は理解していない事がうかがえる。
「無意識」こそ「個人」の根幹なのである。
では落合陽一は、
どの様な手法で「個人」の「無意識」を、
現段階で「書き換えよう」としているのかが、
非常に問題になってくるのである。
例えば「オウム真理教」は、
その「個人」の「無意識」を書き換える為に、
教義にある「絶対的体験」を、
「薬物」つまり「覚醒剤」などによって、
体験させていた事は事実として残っている。
人間にとって「体験」ほど、
その人を「洗脳」させる方法はないのである。
他人にいくら「論理的」で「合理的」な説得があっても、
それは「主体」が実際に「体験」したもの以上の、
「納得」は得る事ができないのである。
この様な前置きから、
落合陽一において二つ目の重要な問題として、
私は落合陽一がこの「洗脳方法」として、
「アート」という「芸術体験」を、
利用しようとしているのではないかと考察している。
だからこそ落合陽一は、
アートそのものの原理を理解できないし、
その機能まで誤認しているのである。
「アート」とは「洗脳」では無い、
「アート」とは「気づき」の「体験」なのである。
日常では気づくことのできなかったものを、
その作品を通して「絶対的な気づき」を得る。
それは私が言うところの、
「芸術体験」であり「愛の体験」「悟りの体験」、
それは「欠損の補い合い」なのである。
しかし落合陽一は、
「デジタルネイチャー」の思想でも理解できる通り、
テクノロジーを無意識化する事を、
「アート」であると考えているのである。
これは落合陽一の通底する問題であり、
大きな勘違いなのだ。
(最後に)
アップルやアイフォーン、
グーグルやアマゾン、
フェイスブックはある種、
環境、アーキテクチャを提供している。
しかしそれは明らかに、
人間を前提に、
それは物理的にも人間の眼前に存在する意味で。
人間の道具として機能している。
確かにこれらのプットフォーマーの支配は、
強大であるが、
「個人」という「主体」を、
いかに「自由」にするかという、
「思想」があるのである。
しかし落合陽一の、
「デジタルネイチャー」は、
ヒューマニズムを否定し、
コンピューターサイエンスという、
「全体主義」の「意識」を、
「個人」の「無意識」を「洗脳」して、
落合陽一という個人の、
私利私欲によって創造(フィクション)、
しようとしている。
この思想はとても危険であると同時に、
非常に前時代的で、
私の中では「日本共産党」と、
なんら変わりのないものなのだ。
この様な思想が賛美され、
本が売れ、
落合陽一自体が、
国立大学の准教授である。
その様な現実は、
私にとっては観測的対象としては、
意味のあるものではあるが。
日本全体として
この様な事が生じている事が、
日本の現在の表層であるという現実を、
しっかりと俯瞰して、
真摯に考えていかなければならない。
美学者母

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