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左腕の消えない傷跡

2021年春。無事に大学を卒業します。
人生の区切りとして、色々あった私の大学生活の中で1番大きな出来事をここに記そうと思います。

自分の左腕には、横線の傷跡が数え切れないほどあります。
リストカットです。
もうほぼ見えない程に薄くはなっているけれど、消えません。

大学2年の初夏から約1年間半、うつ病をしていました。

自語りと言えば自語りですが、時間の経過により病気の頃の感覚や記憶などがどんどん抜け落ちているので、覚えてるうちにそれらを記録に残したくて、綴ります。
(お急ぎの方は以下の目次からまとめに飛んでください。)


うつって実際、どうなるのさ

あまり重い雰囲気にならないように努力しつつ、どのような症状だったかを時系列で(覚えてる範囲で)紹介していきたいと思います。
ちなみに今は寛解して元気です。

幼少期~高校卒業

母親がずっと怒っている人でした。何かをしても怒られる、何をしなくてもとりあえず怒られる。弟が癇癪を起こしがちだったので、弟が癇癪を起こす→母の機嫌が悪くなる→抵抗しない私にとりあえず当たる、という流れがよくありました。

学校では元気っ子なふりをして、親の前ではとにかく機嫌取りに必死でビクビク生きてました。褒められず、認められず、この頃からいわゆる自己肯定感などがほぼ底辺だったと思います。
中学ではクラスでいじめの標的になったりしたので図書室や委員会など他の居場所を作って生息していました。
高校時代は部活に全力を尽くしすぎて貧血やめまいでよく倒れたりと色々ありましたが、恵まれたクラスメイトと楽しく過ごせました。

母親とのエピソードは語りだしたらきりがないのでここでは話しません。
ちなみに最近は弟も反抗期が終わりかけ、母も少し落ち着きが見えてきたので比較的まともな人間関係かなと思う(日もあります)。

中高生の頃から自傷傾向にあったので、とにかく進学して家を出ようと思っていました。

大学1年

無事県外の大学へ進学。(脱出?)
物理的に実家と距離を置くことができて、かなり精神的に落ち着いた生活を送ることができていました。

ですが、定期的に凄まじい量や内容のLINEや電話を繰り返されたり、1人暮らしのはずなのに母親が決めた実家の生活ルールにどこか無意識に縛られていることに気付き、常に母の意見を伺ってきた故に1人で判断を下せない自分のことが嫌になります。
(母がいつも皿洗い時に使っているゴム手袋を新居に置いていってくれたのですが、私はなんだか使いづらかったので使うのをやめていいかを母親に電話で許可を取る、という状態でした)

大学2年 春~夏

春に行われた、吹奏楽部のコンクールメンバーオーディションに落ちてしまいました。この年に限った話ではないんですけどね。
でもこの年は色々ありまして、結果には半年ぐらいずっと納得がいきませんでした。

悔しくて悔しくていてもたってもいられず、初夏の頃は早朝から夜まで空き時間の全てを楽器の練習時間に充てていました。
そして納得がいかない気持ちは、認めてもらえない音楽しかできない自分への嫌悪へと変わってしまいました。
10代の私には、自分で自分のことを認めて愛してあげるという概念がそもそもなかったので、他人の評価で自分を見ることしか知らなかったのです。

18年ほどの人生で積み重なったメンタルの不安定さや成功体験の少なさが、このコンクールオーディションの一件を引き金に大爆発を起こしてしまいます。

まず、ご飯が食べれなくなり、眠れなくなりました。
1週間だけとても暑い週があって、夏バテかな・・・なんて思っていたけれど、少し涼しくなってからも食欲は戻りませんでした。
セブンの春雨つるりんサラダには大変お世話になりました。あれだけはまだ食べることができました。

毎年夏に登場する商品。これが無ければ文字通り本当に死んでいた。ありがとうセブンイレブン

6月頃に母親からもう少し節約をしろという話をされ、親の言うことに従うので必死で、とにかく食費を削りまくっていた記憶があります。

なので食欲が無くなっても、食費が安く済むからそれでもいっかという軽い気持ちでした。最初はどこかゲーム感覚で気軽に節約をしていたものの、途中から「もっともっと削って節約を頑張らなきゃ」と自分を追い詰めてしまい、最終的に食事という行為自体が怖くなり拒食気味になっていきました。

睡眠は、寝付きに毎日最低3時間はかかっていました。寝付いてからも1,2時間おきに中途覚醒してしまい、陽が出るともう眠れずずっと天井を眺めていました。

食事睡眠が不十分だと、日々の生活に支障が出始めます。日中もどこか頭がぼーっとしていて、体に力をいれようと思っても入りません。

7月頃からは、謎のイライラ、焦燥感が目立つようになりました。
胸がぎゅーっと締め付けられて、「このままだと死ぬ」という感覚に襲われる。勢いに任せて物を沢山食べて、全部まとめて吐くとだいぶ気分が楽になりました。過食嘔吐デビューです。

段々やめられなくなり、過食嘔吐で足りなくなってくると、リストカットに手を出しました。昔から自傷気味ではあったけれど、深く切れば切るほど落ち着く。痛さで様々な感情が紛れる。紛れるどころか、腕を切ることで快感まで覚えてたと思います。
そこからは対人ストレスなど少しでも気落ちすることがあると全て自分のせいにして、腕を切ることでそれを発散しました。
その頃にはもうまともな判断能力が残っていなかったので、酷い傷跡を隠すこともせず、普通に過ごしていました。真っ赤な傷の左腕で大学でピアノの練習などをしていました。本当に諸感覚が麻痺していたんだなと思います…。

痛くないの?とよく聞かれます。それを上回る苦しさがあったというのがアンサーですが、苦しみに痛みをぶつけると一時的に脳内麻薬のようなものが出て心地良くなるそうです。本当はやめたくても、あの感覚をもう一度味わいたくて、やめられない事が何度もありました。
今もたまにしんどくなると、あの腕を切った瞬間の快感を手に入れたくてリスカしそうになる時があります。

私は結構傷が浅かったので跡も薄く広くという感じで、ここがリスカ跡だよと言わないと分からない程度です。当時はそれしか逃げ道が無かったとはいえ今もなお後悔しています。リスカ跡は一生消えません。


そして8月。

テストも終わり、集中講義期間に入りました。もうこの頃には心身ともにボロボロ。
頭が働かなくて、コンビニに行っても買うものが決められず30分悩んで立ちつくす。文章を読んでもうまく認識できず読むことができない。
道を歩いているとやる気がぷつんと切れて、途中で立ち止まってしまうこともしばしばありました。げっそりと痩せて、いつ死のう、そんなことばかり考えていました。

どんなに体が無理と言っていても、頑張らなくちゃだめだという謎の強迫観のもと毎日無理矢理生きていました。
その状況を見かねた友人が、試験や部活が色々落ち着いたら病院一緒に行こう、と声をかけてくれました。

しかし、結局一緒に行くことはありませんでした。


来てしまった"その"日

約束よりも先に、体が限界を迎えました。

8月18日のことでした。夏休みの部活後、部員での話し合い中に突然胸が苦しくなりました。突然というより段々苦しさは増していく。

声が出なくて、誰かにSOSを求めることができない。とりあえず教室から廊下に出るも、もう立ち上がる気力が無くその場にヘロヘロと座り込む。物を吐いて楽になれない。腕を切って楽にもなれない。
焦る気持ちばかりが前に出て、気付けばかなり酷い過呼吸になっていました。

その後部員達が気が付いてくれて、水のペットボトルを差し出してくれたのに、手が震えて動かず物が握れない。全身の痙攣がひどく表情筋も動かせない。首で意思表示することで精いっぱいでした。
(ちなみにこれは過換気という状態。過呼吸で酸素が体内に取り込まれすぎて、血液がアルカリ性に近づき、全身の痙攣を引き起こすそうです。)

最終的に、救急車で運ばれました。

当時は未成年なので搬送にあたって保護者に連絡を取らなければいけないそうで、救急車内から母親に電話をかけました。ただ、当時自分もかなり混乱していたことと、久々に母のヒス声を聞いたことで落ち着き始めていた過呼吸が再燃してしまい、そこからの記憶はあまりありません。

過度の栄養失調状態になってたので点滴を受け、リスカもあっさりとバレたので近隣の心療内科の紹介を受けて帰宅しました。

ベッドで撮った写真が前のスマホに残っていた


数日後紹介された心療内科へ。予約がなく、先着順の病院だったので3時間ほど待合室で待ちました。初診の人は先に別室でカウンセリングを受けるそうで、最近の体調とか、過呼吸の頻度、あと簡単なテストを受けました。

診察を受けた結果「うつ状態」「適応障害」「パニック障害」「睡眠障害」「軽めの摂食障害」とオンパレード。
SSRI(抗うつ薬)を中心に、睡眠薬、発作の頓服、それらの副作用を緩和する胃腸薬など薬をドバドバ貰って帰宅しました。

ちなみに受診のあと部活の合宿に遅れて合流したのですが、練習の半分ぐらいは寝込んで参加できず、ご飯もほぼ受け付けず全てトイレで吐いていました。


大学2年 秋~冬

夏休みが終わり授業が始まります。心療内科への通院・服薬を開始したとはいえ、自分に合う種類や量が見つかるまで永遠にお薬ガチャ状態でした。
暑さが和らいできて少し食欲が復活したのも束の間、今度は寒さが原因で食事と睡眠のリズムが崩れ始めます。

この頃から人の中を歩くのが怖くなり、笑って歩いている通行人を見かけると「何が面白くて笑ってるんだろう…」ととても不思議に感じました。大人数の人がいる広い空間もめまいを起こしてしまってしんどかったです。
またパニック障害による過呼吸も昼でも夜でも1日数回は起こしていました。

HSPやADHD系の傾向を持っているので、体調がしんどいとそちらの感覚過敏が強く出てしまい、その中でも特に視覚・眩しさが困りごとでした。目がチカチカするので買い物をしたくてもスーパー・コンビニに近寄れなかったり、本当に酷いときは豆電球の明るさにも耐えられず、真っ暗の部屋で過ごしていました。

うつの特徴として、午前に弱いという点があります。起きてからお昼頃まで頭がぼーっとして無気力で、動くのも話すのもおっくうでした。やっと人とまともに言語コミュニケーションが取れたのは夕方以降だったと思います。
日照時間とうつは深い関係性があるそうですが、冬はそもそもの日照時間が短いことと、寒さで今度は過眠気味になり生活リズムは崩れる一方でした。

午前中は人と話すのも受け付けないレベルでした。たまに1限か2限に遅刻しつつもヌっと授業に出席するものの、それで座っているのが精いっぱいでした。
クラスの人には多大なるご心配やご迷惑をおかけしたことでしょう…放置してもよかったのに「元気?今日来れそうー?」とLINEなどで気にかけてくれた子がたくさんいました。

気力だけではなく体力も落ちました。活動自体はあまりしていないのである程度体力が残っているときでも、果たして体力が足りないのか気力が足りないのかの判断が自分の中でつけられず、更に疲れ果ててしまうこともしばしばでした。

当時つけてた気分記録アプリのスクショ。5段階のスタンプで下半分しか押せないほど12月はほとんどの日で体調を崩していました。

授業も行きたくても体が動かず行けない状態が続き、結局ほとんどの授業に行かなくなり秋学期の単位をほぼ全て落としました。
授業すらまともに行けないのに、部活(年末に定期演奏会)、部活の幹部決めの話し合い、部活のアンサンブルコンテストの練習、合唱の演奏会練習(必修授業)、飲食店バイト、と忙しさがピークを迎えていました。

体調は悪くなる一方で通院の度に薬は増え続けます。(後から聞いた話では、この心療内科は薬を多く出すことで有名な先生だったらしい)

結局いつの間にか「うつ状態」は「うつ病」に進行しており、バイト先でも倒れてしまいしばらく来なくて良いと言われ、部活はドクターストップがかかり休部する事になりました。

もう捨ててもいいんだけれど、なかなか捨てられない診断書

ちなみに通院のこと、病気のことは現在も親に話していません。
休部についても、お医者さんに「休部退部するか、親に全部話して支援を受けるか、どちらか選ばないと死ぬよ」と言われて苦渋の選択の末でした。

休部の手続きをとり、病み散らかしながらも1月の試験期間はとんとんと進んでいきました。12月時点でほとんどの授業の落単が確定していたため、週の授業数や受ける試験数が減っており以前に比べてゆったりとした生活をしてたと思います。


大学2年 冬~春

1月に試験を終え、2月以降はほとんど家で寝て過ごしていました。まだ寒い季節だったので、1日14時間ぐらいは寝ていたと思います。
外出は買い物と通院と大学保健室のカウンセリングのみ。あとはとにかく沢山寝て休んで、ボケーッとYoutubeなどを眺めていました。少し元気のある時はSwitchでポケモンやったり。

休部する少し前から大学保健室内のカウンセリングに通っていたのですが、休んでいるもののあまり回復傾向にみられないので、カウンセラーさんからセカンドオピニオンを提案されました。
前述したように、現在通ってるメンクリのお医者さんは薬を多く出すことで有名だったので、服薬して効果が見られなければ1/4錠、1/2錠、1錠、2錠とどんどん錠数が増えていました。

手元にある薬の量がどんどん増え、深夜にどうしてもしんどくなるとOD(オーバードーズ)をしてしまう事も度々ありました。ODをすることで命を絶つ願望があったかと言われるとそこまでではないのですが、頓服の強めの睡眠薬を1錠飲んでも効果がないので、2錠、3錠と増やしてしまう、という感じでした。

服薬量が増えてくると次にしんどいのは減薬期です。薬が増える時にも副作用があるのですが、抜く時はもっと苦しい症状があります。

そんなこんなで病院を変えてみることになりました。今まで行ってた隣駅の病院から、もう1つ隣駅の病院に行くことになりました。

初診でカウンセリング・診察を受け、病名などの診察結果は以前と同じでした。
ただ、さすが保健室からオススメされた予約待ち必須の病院です。現在処方されている薬の量が不安という相談をしたら、担当になった若い女医さんは、薬の効能や似た種類の薬との比較を全て説明してくださり、私の困りごとに合わせて一緒に種類や量を検討してくれました。

明るくて、優しくて、気持ちに寄り添ってくれて…この時この先生に出会えたことが本当にラッキーでした。

薬の量をいきなり減らすのはリスクがあったので、まずは量はそのままに、効果がマイルドめなものに変えました。
例えば、今までは睡眠導入に短期的に強い効果のある薬を服用していたところを、長期的に朝の目覚めをスッキリさせることで生活リズムを整え夜眠りやすくする薬に変えたりしました。

精神科・心療内科の先生に関しては、女性男性、薬を多く出す人出さない人、明るい人落ち着いた人と、様々なタイプの先生がいらっしゃいますが、その中で自分に合うかはその人次第だと思います。
どうしてもガチャ的要素もあるので、合わないと思ったら先生を変えてみるのは全然アリだと思います。また症状を1から説明するのがとんでもなく面倒ですが…。

黒塗りは大学の用事の名前

そして2月末には、人生初のインフルエンザに罹患。
インフルエンザといえば、体のダルさ(倦怠感)が症状としてありますが、うつ症状のダルさと本当にそっくりなのです。
今まで身体のダルさを感じるときは心が沈むのも必ずセットだったので、「体がダルいのに病んでないよ?!」とびっくりして当時の彼氏にLINEした記憶があります。

あのインフルやコロナのダルさが、程度の変化はありつつも24時間365日続くのがうつです。本当にしんどいです。

3月には認知行動療法を開始しました。カウンセラーさんから貰ったプリントに1日の行動や気分の記録をつけることで自分の体調をより細かく認知するという療法で、少しずつ休みつつも動き始める時期になりました。

本来、うつの休息は半年や1年ともっとゆっくり時間を取るべきだったと思いますが、4月からはまた学校が始まり、親に黙って休学をする勇気もなかったので、休みながらも次へのステップを踏む必要があったのです。

この頃から、2~3日に1度調子の良い日があったりなかったりするようになりました。回復を喜んだり、翌日には逆戻りで落ち込んだり、体調の波に一喜一憂しながら過ごしていました。

3月のツイート

回復の兆しは見えるものの、まだまだ元気な頃には及ばずもどかしい時期でした。
調子が良いのでスーパーに買い物に行くものの、買い物に疲れてしまい調理ができない、またある日は調理までできても調理自体に疲れてしまい食事までありつけないこともありました。

1月から3月のの3ヶ月間は、前から少しずつ貯めていたほんの僅かな貯金を全て崩し生活費に充てて何とかやり過ごしました。
基本寝てるだけでお金もほとんどかからずでしたが、通院はどうしてもそれなりの額が飛びました。


それまであまり今後の事を考えず毎日をゆっくり過ごしていましたが、3月下旬にもなると新学期までも残り指折り数えるほどになってきました。

1番酷かった夏秋冬よりは少しずつ回復しているものの、寝たきりで落ちた体力を取り戻さなければいけなかったり、本当に部活に復帰できるか分からない不安と焦り、またバイトも再開しなければ経済的にかなり厳しくなっていました。

休部したのは病気の療養のためですが、7月には初めて自分たちの代が主体となる大きな演奏会が控えており、そこに元気な姿で参加するという目標を自分で設定しての休部でした。
きちんと治すには更に半年休学するぐらい思いきらないといけないのかもしれない、でも4月には吹き始めないと演奏会には間に合わないかもしれない、早く治さなきゃという焦りが強くなりすぎて体調を崩し1日寝込んだこともありました。

当時の彼氏が突然送ってきた東海オンエアの動画。曲に合わせて3歩進んで2歩下がるを繰り返して進む企画。人生に焦りは禁物なのだ。


大学3年 春

あっという間に新年度。なんとか3年に進級し、再履修を大量に時間割に組み込みながらも学校がスタートしました。
暑すぎるのも寒すぎるのも心身の調子の狂いの原因になりがちですが、春になり寒さも和らいだことで体調も比較的落ち着いていました。
午前中に動けない日もありましたが、単位を落とすほどの欠席はせず、6月には1週間無遅刻無欠席を達成できました。

みんないいねしてくれてとっても嬉しかった


部活動も4月の新歓期間から復帰。合奏中何度か過呼吸やめまいを起こして休憩を挟んだりしましたが、薬を常備したり発作時にどういうマインドでいればいいのかなどが自分の中でしっかり分かっていたので比較的自力で対処できました。

部活に関しては精神面・活動面共にとにかく仲間の支えの存在が私の中でとても大きかったです。
体調がうまくコントロールできず落ち込みかけた時も、「良くなったり悪くなったり繰り返してても、少しずつ良くなってるって見てて分かるから大丈夫だよ」「前より〇〇ができるじゃん!」と私の小さな前進を肯定的に見守ってくれる人がたくさんいました。
5月のショッピングモール演奏会ではチケット予約受付の仕事をこなすことができ、6月の某夢の国での演奏(出演せず応援しに行った)では、かなり不安であった人混みというハードルを超え、閉園時間までパートの人と夢の国観光を満喫することができたりと、少しずつ回復しているという達成感を積むことができました。

バイトは4月から復帰しましたが、倒れるまでいかないにしろ毎回体力的にギリギリになってしまうので1ヶ月で退職しました。レストランのホール業務は常に体力やスピードとの勝負だったので、その後はカードゲームの封入などといった軽作業の工場に派遣で行ったりしていました。


大学3年 初夏

7月に入り、ついに演奏会の日を迎えました。
今思い返すと本番ハイも入っていたんだろうなと思いますが、無事に元気に過ごし、感謝してもしきれない同期、見守ってくれた先輩方、可愛い後輩達と共に、至福の音楽の時間を過ごすことができました。健康に過ごせることが本当に幸せで、あっという間の1日でした。

1年前、身体的に調子が狂い始めたのは初夏のいきなり暑くなった頃でした。
また食欲が落ちないだろうか、寝付けなくならないだろうかという不安がかなりありましたが、なんとかクリアすることができたのも去年との変化を感じてすごく嬉しかったです。
過食嘔吐やOD、リストカットなどの自傷行為全般もこの時期にはかなり落ち着いていました。


大学3年 夏~秋

そんなこんなで3年春学期を無事終えることができました。再履修が多すぎて学科のクラスメイト達より圧倒的にコマ数を抱えていましたが、3年生が始まる頃に履修に強い教授に相談したところ、必修を回収しつつ無理のない時間割を一緒に作成してくださいました。試験期間も終わり、単位もほぼ取れました。(いくつかシンプルに学が足りなくて落としました)

8月の通院から、ついに寛解に向けて減薬をしていくことになりました。冒頭でも寛解と表現しましたが、うつ病は完治という言い方をせず、寛解(かんかい)という症状が落ち着いた事を指す言葉を使います。逆を返すと、完治が難しかったり、再発の可能性の表れでもあります。少し調べてみると、がん界隈でも寛解という言葉が使われているそうです。

減薬をする中で、量をいきなり減らすとSSRI離脱症候群という症状が現れるので、なるべく少しずつ減らします。かなりゆっくり減らすよう先生が調整してくださいましたが、それでも1年以上服薬していた向精神薬などは抜くときにそこそこ症状が出ました。

特に辛かったのが吐き気です。胃腸薬は特に離脱症状は無いので、他の薬は減らしつつ消化器系の薬だけ多めに出してもらって調整していました。
休むほどでは無いけれど気持ち悪さが24時間ずっと続いていて、ご飯を食べると胃が受け付けない。減薬を始めた頃に部活の夏合宿があったのですが、減薬の影響と部活へのストレスもあり、食べては全部吐いてを繰り返してました。
合宿所のご飯が美味しく好きだったのですが、2年連続でろくに食べられず(4年の合宿はコロナで中止になってしまった)、今までのと違って副作用によるものだと頭で分かっていてても、過食嘔吐してるみたいでつらかったなぁという思い出です。


大学3年 冬

秋学期の授業も始まり、部活でも夏から秋にかけたくさん演奏の機会を頂き、経過もよかったので予定より少し前倒しして減薬も進めることができました。
もちろんずっと良くなっていくだけでなくメンタル乱れや上下の波がありながらも、その振れ幅が少しずつ穏やかになっていくのを実感しながら過ごせた時期だった気がします。

そして12月の通院で寛解という診断を貰い、通院を終わらせることができました。


大学4年 それから

病気を寛解して1番驚いたのは、普通の人は日頃から余計な不安を恐れず安心して過ごせるんだと感じたことです。実際に罹患してたのは1年半ほどですが、私が20まで育つ間ずっと抱えていた薄いもやのようなものが病気と共に去り、視界がぐっと明るく鮮やかに、より解像度が高く見えるようになりました。
必要以上に自分を卑下することや無駄に自責をすること、落ち込むことが少なくなり、「一皮むけて新しい自分になれた」と強く強く実感しました。

あくまで寛解なので月に数回落ち込む日はあります。あとたまーに過呼吸を起こしたり、感覚過敏が強く出てしんどさで何もできない夜もあります。
これが長い期間続いて日常生活に支障をきたすようになるとうつ状態、うつ病となっていきますが、上手く自分の中の「うつ」という存在を扱いながら就活や教育実習、卒演といった残りの大学生活を過ごせたのかなと思います。


進路選択

私は音楽教師という夢を持って大学を選び、教員免許を取得しました。
しかし教員採用試験を受験せず、IT系の一般企業に就職します。音楽も教育も大好きで興味が尽きない分野です。教育実習も毎日が充実して楽しくてしょうがなかったです。それでも私は夢を叶える決断ができませんでした。

教員は年間で数千人の先生が精神疾患を理由に休職している職業です。そして、うつ病の5年再発率は約50%といわれています。
もちろん数字だけではないし、一般企業でも精神疾患を発症する人もいれば、元気に生き生きと教壇に立つ人もたくさん知っているけれど、たくさんパワーを必要とする環境で再発のリスクを抱えながら1年間責任を持って子どもたちの前に立つ自信がどうしても持てませんでした。
ですが、いつかは教育や音楽にお仕事として関わっていきたいなぁと思っています。

まとめ

皆さんが一番気になるであろう質問は「どうして病気になったの?」だと思います。
適応障害に対応するストレッサーは、コンクールメンバーのオーディションでした。誤解の無いように説明すると、決して「オーディションに落ちたから私は適応障害/うつ病になった!」というわけではなく、あくまできっかけがオーディションだったというだけです。私の成育から形成されたメンタルはあまりにも脆く、そのまま生き続けていても高校生、大学生、社会人どこかのタイミングできっと崩壊していたと思います。

あとよく聞かれた質問としては「どうやって治したの?」です。
これは休養、投薬、行動認知療法、周りの支えが挙げられると思います。特に4つ目、同じ学科の仲間、教授、部活の同期や先輩など本当に多くの方のサポートがあったことがとても大きかったです。授業の遅刻や欠席でかけた迷惑を受け入れてくれた人、自分の予定を置いて救急車に一緒に乗ってくれた人、過呼吸の発作の時に隣で背中をさすってくれた人、私が再びできるようになったことを認めて喜んでくれた人、部活の中の私の見えないところで動いたり戦ってくれた人など、本当の多くの人の思いやりに救われました。
彼、彼女らには一生頭が上がりません。きちんとお礼を言う機会がなかなかなかったので、もしこの文章を読んでいるのであれば、この場を借りて、ありがとうと伝えたいです。

闘病中、1番つらかったことはいつ治るかが分からなかったことです。出口のないトンネルをひたすら歩いているような気持ちで、きっとどの病気にも共通する悩みだと思います。
当時はとにかく解決の糸口を見つけたくて、たくさんネットで検索したり、うつ経験者の方のエッセイ漫画を購入して読んだりしました。もちろん勉強になる内容もたくさんありましたが、そのようなコンテンツには10年など長い期間闘病している方たちの様子が描かれており、もし私も10年後も同じようにベッドで横になりながら過ごしていたらどうしよう、という恐怖感もありました。

うつを経験してみて思うのは、私の持つ「うつ」は完全に消えてなくなることは無くて、寛解という言葉の通り小さくなったうつがずっと私の横に寄り添っている状態だということです。時にはそれが巨大化して手に負えなくなる日もあるけれど、小さなうつも私の一部だという存在を認めて、上手に付き合いながら日々を重ねていくのだなと感じています。

闘病は精神的、体力的、経済的に本当にきつかったです。
たくさんの苦労を自分の中で肯定しないと気が持たないというのも正直な感想ですが、前より自分のことを大切にできるようになったり、感情や体調のコントロールが上手くなったりなど、たくさん得たものがありました。
進路をはじめ、病気を理由に諦めた事も多くありました。部活の中で責任ある立場になる際に病気の捉え方について周りと衝突したこともあったし、時には症状について心無い言葉をかけられたこともありました。
もちろんうつにならないで済むならそちらの方がいい。それでも、このタイミングでうつになったことに何か意味があったのかも、そう思わずにいられない自分がいます。

減薬する直前なので服薬している期間の中で最高潮に調子が良かった時期。
140字でよくまとまってるなと我ながら感じます。


ここまでお付き合い頂いた方、本当にありがとうございました。
全部で約12,000文字書いたみたいです。
大変だったけれど、忘れたくない私の1年半を綴ることができて自分の中で良い区切りをつけることができました。
ここに綴った病気の症状などはあくまで私の場合です。人によって本当に異なるのでこういう人もいるんだな~程度で捉えてもらえれば嬉しいです。
自分用の記録ですが、このnoteが誰かの力や支えになったらいいな、と、いち うつ経験者として思います。

2021.2.10 まちまちこ


2023年追記


倒れてから5年という月日が経ちました。5年再発率が50%と言われておりますが、今のところ重大なメンタルの不調はなく元気にやっています。
平日はIT企業で働き、休日は吹奏楽団で細々と楽器を続けております。近頃は身体面や自律神経系での不調がやたらと多いので、様々な病院に通いつつもう少し快適に生きやすくなる方策を模索しているところです。20代体力下り坂怖い…。

私が搬送された8月18日を「健康感謝の日」と勝手に制定し、毎年この日には自身の健康を感謝するようにしています。
今noteを読み返すと、当時は相当認知が歪んでいたなぁと思います。なんだか今とは全く別の人格を生きていたような感覚で、メンヘラ全開で病み病みだった日々も今ではちょっと愛おしい。今年も健康に感謝して、美味しいケーキでも食べようと思います。

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