自己犠牲は幸福であることが最低条件
どうも、まちの哲学者です。
みなさんのnoteを読んでいて、自己紹介をする冒頭文に憧れたので、同じように名乗ってみました。マネっこです。笑。
この流れだと、ついつい敬語になりますね。
〜だ、と常体で書くスタイルは、いつも飾ることなく書けるのですが、
〜です、の形体だと、かしこまりますね。少し距離ができた感じになります。
初の試みで、まぁそれも面白いでしょう。笑
今日の話は「自己犠牲」についてです。
ここのところ、「自己犠牲」という言葉をよく聞きます。
偶然なのか、一日に3人もの口から、この言葉が出て来る場面に遭遇しました。
他国には無いだろうと思える遭遇率です。
自己犠牲が美徳とされている、文化の中に生きている日本人らしさを感じました。
自己犠牲は良いこと。
「え?私、、キツいんだけど、他の人の為にしてるから、良いよね?…あれ?でも…全然幸せじゃない」
なーんて。
犠牲が当然と思われてきた世界で、今葛藤が発生しているのでしょう。
自己犠牲ってそもそも何?
そんな考えるきっかけになっているのかも知れません。
以前、哲学者の岸見一郎先生は、コルベ神父のお話をしてくださいました。
今から80年前。
アウシュビッツで、他の人の身代わりになることを名乗り出て、自分の命を差し出し、亡くなった人です。
信じられないような、人格者なのです。
生前から、人として素晴らしい人だったと言うことは、誰でも容易に想像つきます。
その後、コルベ神父の話は“聖者“として語り継がれ、「自己犠牲」がまさに美徳となったのですが、
最低条件として、
自己犠牲する場合には、今、自分が幸せであること、
ということが重要とのことでした。
幸福とは、外套を脱ぎ去るように、簡単に取り除く、なんてことができないもので、
人格そのものが幸福と直結している。だからそんな状況においても、幸福を感じることができていたコルベ神父だからこそ、そのような行動を取れた、と。
このコルベ神父の例に限らず、自己犠牲は、存在します。
大切なのは、その自己犠牲は「義務」ではないし、他人に強要してもならないということです。
自己犠牲を無意識レベルでインストールされている日本人の私達ですが、
mustやhave toの意識で、義務感があったり、無意識に、周囲にも同じような自己犠牲を求めてしまっていなかったでしょうか。
他人に強要する自己犠牲はあってはなりません。
また、自分が幸福でないのに、その上に成り立つ自己犠牲もあってはならないのです。
つまり、自分が喜んで行う「貢献」でしかなく「犠牲」は無い、と言うことですね。
どんな時も、自分の幸せが圧倒的に優先なのです。
幸せじゃないのに、自己犠牲になってるかも…と思われる節がある方は、振り返って、自分が幸福であることを優先させなければなりません。
自己犠牲が蔓延している現代だからこそ…
そんな強めのメッセージが裏には隠れているということを、いつもと、文体を変えて、書いてみました。
現場からは、以上です^^