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だからWEB物書きはめんどくさい

誰がめんどくさいって、このわたし。noteをざわつかせている、「なぜ私は書くのか」コンテスト。応募もしていないくせにどうしてもこの記事が書きたくて、今まさに書こうとしている自分が、心底めんどくさい。お節介すぎる。でも、それでも伝えたいことがあるので、丸一日迷ったけどやっぱり書くことにしました。

「書くのがこわくなった」
「こういう風に書かないとダメなんだ…」
「何を書いていいか分からなくなった」

あーーーーー!(地団駄)
応募者さんたちが!noterさんたちが!
この流れを少しでも変えたい!
じっとしていられない!

子ども達の書きたい気持ちに寄り添う作文教室の先生としても。
ライターさん達の原稿をチェックする編集者としても。
文芸系のコンテストのお手伝い(下読み)をする人間としても。

他人に筆を折られてどうする!
自ら折るとき以外、筆を捨てないで!
自分の文章は自分で守れ!

ああ、語気強めに言うつもりはないのに、気持ちが昂ぶったままなんです。今は静かにパワーチャージしようと思っている方々にかける言葉じゃないことは分かっています。これらは、反転させる↓と戒めの言葉になります。主催者さんだけでなく、編集を仕事としている人間(わたし含む)に対して、言いたいことなのかもしれません。

他人の筆を力ずくで折るな!
発破と追い打ちは別もの
他人の文章をないがしろにしてはいけない

心がざわつき、気持ちが下がっている理由は、それぞれ違うと思います。ひとりの人のなかにも、いろんな思いが複数うずまいていると思います。今からわたしが書くことの、どれか一つでも物書きさんの心に届けばいいなと願っています。

文芸系コンテストのお手伝い(下読み)をする人間として思ったこと

わたしはnote始めて2ヶ月ですし、顔も名前も出していないので、どこの誰ですかって感じに経歴が謎だと思いますが、そういう仕事もしています。

お声かがかるコンテストのジャンルは、文学系、エッセイ系、小説系が多いです。報酬は1本いくらでいただきます。下読みというのは、応募作品を審査員に上げる前にふるいにかけるお仕事です。予選とか、一次選考とか、そういうふうに呼ばれることもありますね。

コンテストにもよりますが、落選者には「ここをこうしたらもっと良くなるよ」というアドバイスを個別にお送りします。厳しいことは書きません。応募者さんがそのレーベルのお客様(読者)というのもありますが、不必要に傷付けても意味がないからです。厳しい指摘はそれが厳しいものであるほど、受け取る側に覚悟(聞く耳)が必要だからです。

件の「落とした理由」記事のなかに、”センシティブな内容は信頼関係を築いてから”という文言がありました。わたしは個人的に、それって厳しめのアドバイスにもあてはまると思うのです。伝えたい相手との信頼関係がないと、聞き入れられないし、伝わらない。クリックしなかった、最後まで読まなかった、と公言している相手を信頼できますか。応募者からすると、落ちるだけでも凹むのに、読みもしなかった相手からのアドバイスなんて受け入れがたいと思うんですよね。あと、”なぜこの文章でそれを実践しないのか”という文言もありました。うーん、これ、指摘していいのかどうか……(逡巡)……やっぱ言います。信頼関係の築けていない応募者に一方的にダメ出しするって、”実践できてない”ですよね?という自己矛盾です。主催者さんもマネージャーさんも、気付いてらっしゃらないのかなあ。

だからわたしは、選考の仕事をするとき、応募者を褒めます。書いた人の魅力を見つけて、褒められた本人がそれを自分の魅力として自覚できるように、心を込めて伝えます。顔の見えない相手だからこそ。

応募してみようかなと思ったうちの何割が書き始めるでしょうか。書き始めた人の何割が書き終えるでしょうか。書き終えて応募までたどり着いたことがすごいと、わたしは思うのです。

選考するときの話もしますね。わたし自身が歩くセンシティブ案件(……)なので、ちょっとやそっとの内容には驚きません。ホラーは少し苦手ですが、仕事なので選り好みしている場合ではありません。全部の作品を最後まで読みます。応募作品には、文章が上手な人もいれば、まだ書き慣れていなさそうな人もいます。内容の硬軟や文章の上手い下手は実はあまり関係なく、わたしは個人的に「仕事なのを忘れて読んじゃった!ああ、おもしろかった!」という作品が好きです。おもしろいというのは笑えるという意味じゃないんですよね。引き込まれたということ。そういう作品を通過させます。

忘れてはいけないのは、それもまた、わたし個人の好みでしかないということ、たいていのコンテストでは下読みスタッフは複数人いるということ、審査のコンセプトをそんなに詳しくは指示されないこと、審査員が下読みに関わらないこと。私設コンテストとはそこが大きく違う点です。知っておいて損ではないと思います。

ライターさん達の原稿をチェックする編集者として思ったこと

編集の仕事は多岐にわたります。作業領域は、どういう媒体でどういう仕事に携わるかでも全く異なります。WEBと紙という分け方だったり、雑誌と書籍でも分けたり、広告か非広告かという分け方もありますね。

仕事の場面でもこんな↓ズレがよくあるんです。

問い合わせ「化粧品LPのディレクションをご依頼できますか」
編集者「自分は雑誌畑で、買い取りかバーターでページを作る仕事はしておりますが、WEB制作は取り扱っておらず申し訳ございません。ご紹介できそうな制作会社はございますが」

LP(ランディングページ)というのは、キーワード検索などで辿り着く、商品申込へと誘導されるWEBページです。一口で「広告」といっても、このようにいろいろなところで編集の仕事が存在します。いわんや全体をや、です。

わたし自身でいうと、紙:WEBの比率は8:2、雑誌:書籍の比率は6:4、広告:非広告の比率は3:7くらいでしょうか。これも人によって違いますしね。

それで感じたんですけれど……。私設コンテスト主催者さんも編集者ということですが、ご経歴もWEBメディアご出身とありましたし、WEBにおける方法論を軸に展開されているなと感じました。文の途中の改行、行間のあけ方、文字の強調、感想の引用、タイトルでの引き。読み手の想定やNG項目なども。なによりクリックするしないが指標になっているところかな。

noteはブログサービスですが、アカウントを持つクリエイターさんはブロガーさんだけではなく、創作を楽しむ人も多い印象があります。コンテスト応募作品をすべて見ていませんし、わたしの相互さん&片道フォローの方々の投稿を読んだだけですが、「ツールとして文章を使っている」人はいなくて「読み物としての文章を書いている」人ばかりでした。「なぜ私は書くのか」というテーマはどう考えても、文芸コンテストという印象を強く与えます。

うーん……このミスマッチは双方がつらい思いをするのでは。そう感じました。(制作現場でもいろいろあるんですよ…広告記事より編集記事が上だの、広告取ってくるからそっちは好きに作れるんだろうがだの、WEBより紙だの、紙は頭が固いから数字が取れないだの、しょうもないマウントの取り合いが!)このことも、今回の記事を書こうと思った理由の一つです。

「クリックされない、検索されない、そんな記事は存在しないも同じ」これはWEB制作会社さんが打ち合わせのときに発言したセリフです。WEBページ制作という意味では全くその通りだし平気な顔して仕事しましたが、文芸が好きなわたしは内心とても悲しかった。

このマウント、書き手に関係あります? 創作したい人をそこに巻き込むのはやめた方がいいんじゃないかなと個人的に思ってるんですよ。編集など制作に関わる人が、自分の領域という高みに立ってものを言うと、軋轢が生じます。それって、創作している人にはまったくもって無関係な話だと思います。創作(文芸)はそういうしがらみから最も遠いところにあってほしいというのが、わたしの個人的な気持ちです。創作する人が自ら媒体を選び、納得した上で求められる方向に舵を切るのは仕事人としてありだと思うけど……。

コンテストはきらりと光る作品を掬い上げる場所なのか、コンテストは気に入らないものを落とす場所なのか。それは人によって違いますし、件のコンテストは私設コンテストなので主催者さんの自由です。ただ、ミスマッチを生まないよう、最低限のアナウンスは必要だったのではないでしょうか。

ここからは、編集スタンスのお話をします。思い出話です。

出版社に勤めていたとき、わたしは雑誌の編集部に所属していて、月刊誌の一編集者をやりながら、季刊ムックの統括編集を担当していました。目まぐるしい毎日です。数多くの外注クリエイターさん(ライター、カメラマン、デザイナー、イラストレーター)に力を貸してもらいながら制作していました。忘れてはならないのは、校正・校閲の方々です。わたしがいた出版社は、社内に校正者がいたので、ほとんどの刊行物で一緒に仕事をしていました。デスク同士も近くて。

校正「まーちゃん、ちょっとちょっと」
わたし「え。なになに?何かあった?」
校正「ないない。上がってきた○○さんの原稿(飲食店ガイドの別冊付録)見て」
わたし「うん?(読む)…ふっ、wwwwww 好きw」
校正「○○さんめっちゃ楽しそう~。美味しかったんだろうなぁ」
わたし「わたしも食べたくなっちゃうじゃん!」
校正「残す」
わたし「残して残して!」

↑ の会話は、ライターさんの原稿が食レポを通り越してドラマチックかつダイナミックな表現でね、そのライターさんにしか書けない個性だからそこをいかして原稿整えようっていう流れなの。揃えようと思えば、全店舗の原稿を均一化できるけれど、ライターさんは素材集めマシンじゃないから、”生”の言葉はできるだけ読み手に届けたいなって思ってのこと。

仲良しの校正さんとよく語り合っていたのは、編集や校正って、ライターさん作家さんに自由に書いてもらうために仕事してるとこあるよねって。表記だったり、表現だったり、そういうのを「修正が入らないように」「気に入られるように」ってガチガチになって書いていたら、楽しくないし続かないし何よりその人の持ち味が発揮されなくてもったいないと思うんです。

思いっきり書いてほしい!
表記の問題?表現の問題?
後の調整はこっちに任せて自分を出して!

これって、制作メンバー同士の信頼関係でもあると思うんですよね。原稿をいかしたい、原稿を任せられる、って。わたしにとって、編集の仕事はこういう「仲介役」というイメージなのです。書き手と読み手の間に立つ、仲介役。だから思うんですけど、ライターや作家が、編集者の顔色をうかがう関係はいびつです。一緒に仕事をしていくパートナーなのだから、相性もありますし、信頼できる人と組んだ方がいいです。

まあ、たまにライターさんにも「自分の原稿には手を加えないでください」と言って引かない人もいます。編集長に「そういうセリフはうちの看板作家になってから言ってください」とバッサリ斬られてたな……。いかんいかん、すぐ脱線してしまう。

編集者の数だけ、考え方があると思います。そのなかのひとり、わたしはこういうスタンスで仕事してますっていうお話でした!

子ども達の書きたい気持ちに寄り添う作文教室の先生として思ったこと

わたしが作文教室をやっている理由はたくさんあるのですが、その1つが、賞レースの在り方を変えていきたいから、です。

子どもの頃から不思議だったんですよね。なんで賞を取るような作文は、生死、病気、事故、障害、降りかかる不幸、そして目新しい活動、ばかりなんだろうって。文章の上手い下手ではなく、題材で審査されてるんじゃないかって。

わたしが興味あったのは、平凡な日常でした。知り合いがひとりもいない中学に入学して、周りの人と話したり見学したりしながら自分が何者になりたいのか考えて、迷った末に部活を決めた話とか。ちなみに美術部。クラスで何かを決める時よく多数決が使われるけど、多数決って何なのか調べて、同級生にどう思うか聞いてまわって、本当はどんな決め方がいちばん満足度が高いか検討してみた話とか。「え?なに?新聞委員だっけ?」と言われた。万年図書委員です。生活作文ではそんなことばっかり書いていました。この例え話に何行使う気だ。すみません。

とにかく「平凡」「華がない」「地味」と評されるわたしの作文。コンテストやコンクールでも、佳作どまり。

ヘビーな内容は、書きたい人が書けばいい。でも、そういうテーマを選ばない、日常を書き綴る人が何も考えずに楽に生きているわけじゃない。

自分が良い賞を取れないとしても、優秀作品集に誰かの「なんてことはないよくある」話が載っていてそれを読めたら、わたしの気持ちもいくらかは違っていたのかもしれません。でもさ、ないんだもの。審査員の好みが透けて見えるんだもの。それ以外のテーマで書いた応募作品なんてそもそも審査する気ないんじゃないかって思えるんだもの。

忘れもしないのは、母親がテーマの募集でした。国語科の課題で全員提出で、わたしは母娘間の心理的もやもやを書き綴りました。学校代表にはなったけど、コンテストでは落ちました。翌年も同様の流れで課題が出て、わたしはめんどくさくなってやけっぱちで、産んでくれてありがとう(棒読み)的な作文を書いたところ、表彰式に呼ばれるくらいの良い賞をもらいました。

家に帰って、賞状も、作品集も、びりびりに破って捨てました。
くっだらない。
お涙ちょうだいなんかくそくらえ。

このことが原体験となって、今もわたしの心の奥にあります。文章を書くということは、自分を見つめるということです。心のうちを表に出すと決めたとき、人は大なり小なり、書きながら覚悟を育てています。それをさ、テーマの選び方でどうこう言われたくないわ。大人(審査員)の好みに合わせる必要なんかないよ。…どうしてもそういうふうに思ってしまうんですよね。

わたしが主宰する作文教室では、センシティブなテーマを課された子どもには、「書くことで思い出して、あなたがもう一度傷付き直してしまうかもしれない。それがとても心配なの」と伝えて気持ちを聞きます。「賞を取りたい」と言う子にも、それなりの覚悟を問います。書くと決めた子には心からのリスペクトとサポートを。一方で、なんの配慮もなく課そうとする大人(学校・保護者・塾)には、わたしから一言お伝えさせていただいています。

センシティブ偏重のコンテンツ
センシティブ忌避のコンテンツ

わたしたちの周りはそんなコンテンツで溢れています。その裏にあるのは、刺激は欲しいけど傷付きたくないというニーズ。そんなどちらともつかない危うい揺らぎのなかで、誰かが心を削って書いた文章が消費されるのが許せない。「こういうのを書け」という圧も、「これは書くな」という圧も、どちらも乱暴すぎるんじゃないかな。今の世の中を見ていて、わたしはそう思ってしまいます。

「何を書くか」ってそんなに口出しされなきゃならないものでしょうか。創作の中でくらい好きに書かせてほしい。

わたしは、子ども達のなにげない日常が好き。その子がその時にしか書けない等身大の作文が大好き。覚悟が伝わる熱量の作文も愛おしい。どの作文にも、その子らしさがあります。それを見つけて、本人が自覚できるように伝えて、強みとして使いこなせるようにしてあげるまでが、作文指導者の仕事だと考えています。ふとしたときに「編集の仕事にも似ているな」と感じるんですよ。

noteを始めて2ヶ月のわたし。夏休み期間中は作文アドバイス記事をせっせとアップしていたので、「創作大賞」も「なぜ私は書くのか」も参加せず、相互さんと交流する余裕もなく…。たまたま流れてくる記事を読んでは「この人の記事また読みたいな」とフォローするくらいしかできませんでした。夏の繁忙期も過ぎたので、秋はたくさんのnote記事を読みに行きたいなーと思っているところです。読書の秋ですし。

あなたのnoteを読ませてくださいねっ!
さあ、好きに書き散らそう!
そんなnoteがわたしは読みたいの!

コンテストなんて、どの団体・企業がやってても、どの個人がやってても、所詮「自分(達)が考えた最強の○○!」でしかないんですよ。そのモノサシ、実は他では通用しないってこと、けっこうありますから。

あーーー。最後に言っちゃった。(ガチ本音)




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まちか先生|作文講師・ライター
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