見出し画像

死の妄想 No.44

 アパートから10分くらいの銭湯に行くと、背中に立派な赤鬼の彫り物の入ったじじいが湯船の前でぶっ倒れていた。老人特有の不安になるイビキを一応かいていて、血が出てるとかウンコを漏らしてるとか黄色い汁が出てるとかではないので洗い場の誰もが知らんふりをした。人慣れしすぎている彼らはゲボをぶっかけられたとかではなければ無いものにする。下手したらゲボを、肩口にしたたかにぶっかけられても「大丈夫ですか?」となる。人には期待をしないので、必然的に自閉的なのだ。自閉的優しさ…
 風呂屋ではこういう手合いよりむしろ、「おっ!○○さんじゃないですか!」みたいな無限に人恋しいおじさんとか、何匹にも分裂して走り回る子供とか、酒が入って大声で人の噂をする学生とか、そういう動いて音の出るのの方がわかりやすく面倒だ。動いていないならタオルの棚や観葉植物と同じだが、それでも魚屋じゃあるまいし、生のじじいがタイルの上でピチピチしてたらちょっとはこたえる。

 直感として、シャブ抜きに湯に入りに来た者の感じがした。古ヤクザのポン中か、きついなと、同情した。案の定、おかみが声をかけに来た時も呂律が回っていないし、酒にしては色々「激しい」感じがした。体内の異物を排出するのに、入浴はあまり効果がない。特に外で風呂に入ると人目が気になるあまり変な精神がたくさん出て危ない。汗で流そう、という発想は一見理にかなってはいるものの、わざわざ銭湯に来ているのなら気分転換の意味合いの方が、やはり大きいだろう。いや、むしろ汗を出すならスポーツをやったり走ったりした方がいい。時代遅れで不健全なヒッピー野郎から一転、皇居ランナーだ。そこまで地下鉄はどうするんだよ?いや、永田町に住んでいるかもしれないじゃないか。人の話だか映画だかで、幻覚剤をぶち込んで市民プールに入ったら泳ぎ方をすっかり忘れて、目一杯お世話になってしまったというのを聞いたことがある。水辺は危ないから、砂場で思い切り穴を掘るといいだろう。

 おれが髭を剃っている時に銭湯のおかみが生魚鬼じじいを再び起こしに来た。「お客さん、お客さん!そこで寝たらみんな入れないよ!椅子ほらね、椅子そこにあるからさ、ね。」
 さっきはムームー(わけのわからないことを)言いながら渋々起き上がっていた鬼が、今度は技術的なお問合せ(怒ったやつ)を受けた理系職みたいにムクっと起き上がり、脱衣所へと歩いて行った。頭を洗って髭を剃って茹だっている、お豆腐の男衆が全員ふたたび、鬼とおかみを見てしばし手を止めた。数秒間湯船の音だけが鳴った後、この都会人達は「疲れたな」「なんだろうな」「今日はアサヒだな」「疲れたな」「まあな」「ん?」とめいめい自分の頭で反復しながら、頭や髭や交互浴を再開した。音が戻った。
 鬼は脱衣所から戻ってこなかったから、帰宅を決意したんだろう。おかみは、ぬる湯の方から網に入ったドラえもん(今日はドラえもん湯の日なので、ドラえもんが湯の中に入っている)を引っ張り出して左手のもう一つの網ドラえもんを湯にぼっちょんと入れた。ドラえもんのプログラム的には、人間がタイルの上で寝ている姿は「人間の法則」として矛盾する。ウォン・カーウァイ映画のキッチンに、何故か下着だけがきっちり揃って置かれているような感じに見えるんだと、思う。ドラえもんにとって鬼は「絵画」にしか見えなかったので、彼だけが流暢に一人で会話を続けていた(アンプリファイア装置は記憶しないから厳密には人間の手ではないんですよね、それはレトリックであるという認識のもとで、興味深いんですよね、等)。

参考:ドラえもん

 ボッティチェリが何故ヴィーナスをああやって描いたか?おれがボッティチェリなら「アチシらは「なぜか」布を纏っているから」であると回答する。なぜか、をかなり強調して、ともすれば遠回りして、説明すると思う。
 服を着た人にとってヴィーナスは異物である。逆にヴィーナスにとって服を着た人は異物である。あの表情にはほんの少しの困惑が見えるから、おれも確証を持ってこう言っている。最も純粋な知性がさいしょに言うには、「なんで、なにを、そんなん着てんのん?」または「なんで、なにを、そんなもん出して、うろちょろしとん?」。服を着ていないお豆腐どもの中にいて、ヤク抜きで体感時間が何倍にも引き延ばされた鬼にとっては、ここは最早「裸の世界」だった。おかみは服を着ていて、その言葉より先にその違和感を朦朧とした蜂の巣の脳が敏感にキャッチし、びっくりして我に帰った、と分析できた。この感覚は、少しと言わず、わかる。

 例えば、東京都心の小綺麗なサウナ施設(チルくん蒸し器と呼ばれている)などで入浴していると、着衣した若い従業員が何やら忙しげに頻繁に出入りする。サウナで水蒸気?だかを浴びせるため、云々、であるが、あれは、全裸でいる者たちを非常に落ち着かない、むずかしい気分にさせるものだ。単純、完全丸腰であるこちらからすると脅威、危険性を感じる。インディオが欧米人に対して感じたような原始的な恐怖心を思い出す。

 薬が効いてきた。ラボナ(バルビツール酸系睡眠薬・多く飲むと本当に死ぬ・今ほとんど処方されない)を、30錠飲んだから、今回ばかりはもう確実である。おれは浴槽でのんびり茹だっている風でこの後顔を沈めて、そしたらそのまま呼吸する器官が麻痺して死ぬだろう。ここの銭湯の客は、たとえ倒れていてもケイレンしていても、ウンコや体液を漏らさなければしばらくは放っておいてくれる。
 おかみが一度目に呼びにきた際鬼は起きなかった。おかみは素っ裸で入ってきたので鬼はびっくりしなかったのだ。確かに、おかみは素っ裸で入ってきた。二度目に起きたのは服を着ていて、その違和感を感じたからであるから、一度目は素っ裸だ。いや、ヴィーナスなどもう関係ない。そんなものはどうでもいい。おかみはベージュの肌着もつけず、ぴたぴたとやってきた。これが一応、事実だろう。
 ようやく、この30分で何が起きたかを整理し、理解できた。いまここの男たちは全員、自分がなにか鬼気迫る幻覚を見ている、疲れているんだと思い込み、その出来事の全てを無視している。おれはおかみの、初老らしからぬ、顔に比べて遥かに若々しい桃色のお尻を克明に思い出した。風呂の湿度で蒸された後れ毛を思い出した。自分の人生の最後の1ページが突然おばちゃん生全裸に差し替えられたことが、何故かたまらなくセクシーなことに感じられて、股間がみるみるうちに大きく大きくなっていった。反射的に、両手で股間を握って隠そうとした。銭湯で自殺していいのに勃起してはいけないと思っている自分がおかしくて、おれは一度顔を上げてケタケタ笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?