決心の続き🍣
「ユリイカ」のパク・チャヌク特集を読み始めた序盤、私は『別れる決心』の結末について、自分が重大な思い違いをしていたことに気がついた。
ヘジュンはソレに、「愛している」と言わなかったのだ。
映画の全編に散らばっている言葉の齟齬が、ここでも一つの行き違いを生んでいたこと。(あぁ、私には、こうした重要な部分を見落とすきらいがある…)
ソレはヘジュンの、(警察官としての自分という社会的な含意で)「僕は完全に崩壊しました」と言ったのだが、ソレはこの言葉の意味を、「愛している」と取り違えていたのだ。(自己紹介の時にソレが必ず付け加える言葉は、中国人であるため韓国語は苦手です、だった。)
消息を絶ったソレの車の中に残されていたスマホには、「崩壊」の意味を調べていた形跡があった。
崩壊ー崩れて、壊れる。
一人の清廉潔白な男、しかも珍しく(?)"品のある"警察官を「崩壊」させたという事実は、ソレを内心の歓喜に陥れたと思う。
だが、「私は崩壊した」という言葉が、「愛している」に変換され得るのか、2回目を観た私はまだ首を捻っている。
私は、ソレの置かれた状況の悲惨さ、深刻さに気づいていなかったのだろう。善悪の悪、誤り、劣りのレッテルはなぜ、女が引き受けなければならないのかを自問する時、「私が悪いのですか」というソレの言葉が一層切実に響く。
…自分の名前を刺青で体に刻ませた元夫の所有欲の異常さ、折られた腕の骨。彼女は暴力を振るわれることに慣れている。…
ソレのことを理解していると思い込み、当たり前のように彼女に感情移入していた私は、結局のところ、ヘジュンと同じ「持てる者」なのだということを突きつけられたような気がした。「持てる者」は、「持たざる者」を本当に理解することはできない。(ヘジュンと私は、性別や社会的地位において、全くの同列とは言えないにしても)
ヘジュンや私のような人間は、掌から音もなく溢れていく砂を、ただ黙って見つめることしかできないのだろうか。目の前で大事なものを失うのだろうか。劇中、ヘジュンが追っていた別の事件の犯人が、彼の目の前で飛び降り自殺を図るが、ここでもヘジュンはなす術を持たなかった。
生来の楽天家が災いすることだってある。希望的観測が、相手の絶望を招くことだって、ままあるのだ。言葉による説得の力は、軟弱なものとしてそこにある。
死は、永遠の沈黙である。
言葉にしない、ならない、できなかった思いを抱いて、ソレは貝のように固く口を閉じ、海の底に沈んでいく。
あふれてこぼれた思いは、波となって横溢する、すべてのものを「崩壊」させる。