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「世紀末ウィーンのグラフィック」展
くすんだ黄金色の、長い手足の女性たち。
散りばめられた星や月、うっとりと閉じられた瞳。
まちがいなく同じ世紀末芸術であるのに、フランスのそれとは何かが違う——
退廃、幻想、神秘、異教といったフランスの世紀末文化に親しんでいただけに、ウィーンのグラフィックから発される力強い「大義」に圧倒されてしまった。
デザインの表象は似ているのに、決して本質は唯美主義ではない。むしろ、正反対にある。
19世紀末フランス、象徴派の詩人たちは、大衆に自らの芸術を流通させることの精神的苦痛に苛まれ、皮肉を込めて自分たちを「呪われた詩人たち」と呼んだ。
理想を追い求め、ときには身を削りながら美を表現しようとしたアーティストたちは、芸術を高尚な言語のように扱ったのである。
一方ウィーンでは、クリムトの率いる分離派が、「芸術をあらゆる人々のためのもの」にするべく、 さまざまな媒体に惜しみなくその才能を注ぎ込んだ。
アール・ヌーヴォーからアール・デコへ。
どこか、竹久夢二や小林かいちを彷彿とさせる珠玉のグラフィックたちは、100年以上前とは思えない、モダンなデザインばかり。
それにしても、芸術家はそれぞれ独立した表現者であるのに、似た要素をもって時代の潮流を創り上げてしまうのは何故なのだろう。
世紀末ウィーンに関しては、美を広める という大義が、その大河の水源であるように思える。
本棚にこんな美しい装丁の本があったなら、眠らずに星や遠い国や古代の夢を見ることができるかもしれない……
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写真撮影が可能だったので、特に印象的だった二作を。
カミラ・ビルケ《百合の飾り》
やわらかな流線と、淡い色の移ろいは、百合の花弁越しに透かし見た薄暮か。
この絵を前に、ヴェールのむこうにある世界を想像せずにはいられない。
コロマン・モーザー《月次絵》
すらりとした女性たちが織りなす季節、特に八月が好い。神秘的な印象があるのは、古代ギリシア・ローマ風の、裾の長い衣裳のためか、それとも神殿の柱のように女神たちが並ぶ構図のためか。
何だか栞にしてお気に入りの本に忍ばせておきたいな、と思ったところで、ウィーン分離派の“大義”が再び過ぎった。
「日常の隅々まで美を行き渡らせる」
——まさしく、表現者たちの勝利ではないか。
百年後のいまでも、その意志は熾火のように燃えているのだ。
そして火は、わたしの中にずっとくすぶり続ける 永遠 というテーマを照らし出した。
子孫と違い、芸術は形を変えずに鑑賞者だけを変えて生きてゆく。たとえ高尚であれ、小さなものであれ、それは永遠の命といっても、きっと過言ではない。
飛行機が体の進化を待たずして空を飛ぶことを人類に叶えたように、芸術もまた、人にのみ許された、肉体を必要としない継承手段の一つであるのだろう。
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仕事が忙しくなるにつれ、休日に飢えたけもののように芸術を貪るようになってしまったわたしは、ときに美と美術館の関係について考えることがある。
美とは、鏡のように静かで透きとおった泉だ。太古からこんこんと湧き出るその泉は、時世や覗きこむ者のほんとうの姿を浮き彫りにする。
だから、人々は確かなものを自らに発見するため、清らかな川の上流を目指して、美術館に足を運ぶのだ……と。
最後に。
わたしは4月からの東京開催を待ちきれずに遥々来てしまったが、おかげで京都国立近代美術館の静謐な空間に飾られた、膨大なコレクションを観る幸せを味わえた。
曇りの日だったこともあり、白と灰色の光につつまれた館内は、作品に集中する最適の環境だったように思う。
今展は、絵画はもちろん、デザイン・印刷に興味のある方はさらに楽しめる展示内容となっているので、ぜひ一度訪れてみてほしい。
2019.1.20 青磁