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受動的な行動をしないために能動的な行動を制限する



能動と受動の違いとは何か

一般的に能動的と受動的というのは主体的な行為と、周りからやらされる行為のことを言っているみたいだ。
でも、暇な時間にスマホを見る行為だって自分からやっているけど、非常に受動的に見えないだろうか。

ゲームや、スマートフォンを見ることを僕たちは受動的だと思うし、電子書籍を読むことやパソコンで調べ物をして資料を作ることを能動的だと思う。

同じ動画でも、試験勉強に使うようなものは能動的なものだと思われる。

人によってはゲームを能動的な行為だと思うこともあるし、人によっては外に出ることを能動的な行為だと思う人もいる。

同じ行動でも能動から受動になることがある

最近感じたのは同じ行為でも、能動的なものから受動的な感じになることがあるということだ。
例えば、図書館に行くという行為は僕にとって能動的な行為だった。
でも毎日夜に図書館に行ったり土日に図書館に行くようになって、だんだん今日は何も頭が回らないし他のことをやった方がいいような気がするけど図書館に行こうと思うようになっていた。
図書館に行くことが習慣になっていたり、図書館に行くことが目的化していたのだ。
図書館に行けていなかった時は図書館に行くことが大事で、それによっていろんな気分の変化やいろんな作業の進展があったが、図書館に行くことに慣れてしまうと、図書館で結局ダラダラすることも多くなったのである。

そうなると図書館に行くことは非常に消極的な選択肢になっていて、能動的というよりも受動的な選択となっていた。

他にも散歩というのも受動的になる瞬間がある。
それはやはりやることがあるのに、その選択を取ろうとするときだ。
やらないといけないのに、その選択を取らずに、逃げの選択として散歩をする。

読書も同じようなところがある。

そう考えてみると、例えばゲームのデバッグをする人は、ゲームをすることが仕事であり、そこに受動性はない。
でも、同じ操作をやるとしても、仮に、仕事でもないのに今日のバイトををサボってやっていたらそれはなんだか受動的で、依存的に思えるわけだ。

となると、図書館に行くことが現実逃避につながってしまった時に行為は受動性になる。

能動的な行動とか受動的な行動は状況が作る

能動性や受動性という概念は行為ごとにつけられるものではなくて、その人の置かれている状況においてつくものだ。

その人がそこに意味を感じている行為を行うことが能動性だと思うし、受動的に行為を行なってそこで意味に気づくとその後能動性が生まれてくることもあると思う。
仕事が極めて能動的な時と極めて受動的な時がある。
自分から仕事に対していろいろな工夫をしているとそれは能動的だけど、なるべく楽をするようにいろんなことから逃げて最低限の仕事をしていると受動的に見えることがある。
でも例えば、自分はこの仕事しかしませんと言って、仕事を早く終わらせれて家族との時間を充実させることを誰も受動的とは言わない。

やはりそこに意味に対する思いとか、主体性とか、その主体性のために筋を通す姿勢とかそう言ったものを感じると人はそれを能動的とみなすような気がする。
そこにはちゃんとやってるねという評価が下されやすい。
いわば発言したことや約束したことを履行しているかどうかというのも不思議と能動性と受動性を分けているように思う。

ただ、これに関しては、周囲からどう見えるかという話である。
その人が何も言わずに定時に帰ってもその人の中でここまではやってここまではやらないと決めていたら、その人視点は能動的であった可能性もある。

ただ、仮に、その人が自分の心の中で思ったことを再び修正した時にそれは能動的と言えるのかどうかわからない。

ログインボーナス化したランニングという習慣

散歩に対してこれは意味があると決めても、他のことから逃げる言い訳として使われると何か能動性が失われる感じがある。

実際問題ランニングなどを習慣化しようとした時に、最初は土日とかに初めてみて、それで十分な余白が確保されているので、ランニングをしただけで能動性とか主体性が確保されるわけだけど、平日などになってきた時に、やらないといけない宿題とか、皿洗いとかをほっぽって、ランニングをしただけになってしまった時に、そこまでしっかり余白を持ってできていた意味のあるランニングが、何やら狭いところにぎゅうぎゅう詰めにされるような感覚がある。
大概こうなるとランニングをやめることになって、他の業務や他のやらないといけないことをやるということになったりする。

本来なら、ランニングの能動性というのは、ランニングのみに発揮されるものではなくて、ランニングの時間を確保するためにも発揮されるものであるはずだ。
しかし、ランニングをするということだけに能動性を発揮すると、時間を確保できずに、まだそこに前の建物があるのに上からグシャリとランニングという建物を立ててしまうような感じになる。
でもランニングの建物を建てるにはその前の建物を壊して、ゴミを片付けて基礎固めとかをしないといけないのである。

例えば仕事で例えるなら、本当ならそこでタスクをやったり勉強をしておかなきゃいけなかった時間にランニングを入れることで、どんどんタスクが増えていく、どんどんしんどくなっていく。
でもランニングもしなきゃなんて言って、ランニングばかりしていく。
これは、ログインボーナスがあるからといって毎日ゲームを開いてしまうことと全く同じではないか。

他のタスクの存在と受動的な行動

今あるタスクに迷惑をかけないで、新しいタスクを入れることが能動性だとして、じゃあそれがメンタルにいいのか。意味があるのか。

逆の状態を考えてみる。
受動的な状態というのは、例えば何かをやらないといけない時間なのにスマホを触ってしまったり、気がついたらスマホを触っている状態で、「ゲームのログインボーナスを惰性でやってしまうようにランニングをしてしまう」場合もそうであると言った。
でも本当に予定がない日には受動的だなと思うのだろうか。
本当に予定がないし、これからも何かする予定がない日に受動的だと思うのか。

別に何をしてもいい日というのを決めたとするとその1日何をしてもいいわけだから、例えばコーラとポテチを食いながら「コードギアス」を一気見してもいいわけで。
その翌日から普通に健康的にやることやっていると仮定したら、その日1日はスマホを惰性で見たってなんの心理的負担もないではないか。
しかもなんならスマホの良ささえわかるかもしれない。

こう言ったことを考えてみると、僕たちは何か予定だとかタスクを無意識のうちに設定してしまっている気がする。
例えば仕事終わりの土日にダラダラして「しまった!」と思うのならば、きっと、今の人生は理想の人生ではないとどこかで思っていて、理想の人生像というのがふんわり頭に浮かぶからスマホを見ていることを問題だと認識してしまう。
また、きちんと宣言をしないということもここでは問題であると思う。
先ほどのようにこの日は何をやっても良いと決めるとあんなに受動的だったスマホからもそんなに嫌な香りがしなくなる。

これはしばしば旅行で起きていて、旅行をする日は僕たちは無意識のうちにこの日は旅行の日だと思い込むので、そこで普段はしないような夜中まで酒を飲むとか、ホテルに帰って映画を見ちゃうなんてことをしても、旅行の日程に影響があるとしんどいわけだけど、人生にとって無意味なことをしてしまったとは思わない。

逆に何も考えずにスマホを触ってしまうことは、人生にとって無意味という感覚があるような気がした。

受動的な行動をしないために能動的な行動を制限する

ここまでを整理するときに、例えばなんらかのタスクが頭をよぎっている時に、逃避的に行為をするとなんだか嫌な感じがして、スマホなんかをやると「受動的な行為をやってしまったな」と思うということがわかった。
逆になんらかの宣言を行うことで(例えばその日1日だけは何をやってもいいと宣言する)、その日の行為を正当化することができることもわかった。

となるとモデルとして今まではスマホとかゲームとか、人によっては飲み会とか散歩とかもあるかもしれないが、そういった個人ごとの特定の受動的行為が問題だと思っていたのだけど、どうもそれは違う気がする。
どちらかというと、自分が意味があると思った行為が頭の中のバックグラウンドで流れている状態で、スマホなどの自動的な行為をやってしまった時に、意味のある行為と意味のない行為が重なったときに、これは受動的な行為でなんだか嫌な行為で、自分は弱いなと思ってしまっているような気がする。

となると、問題は自動的な行為を減らすことではない。
むしろ意味があると思った行為を規定して、それを実行することだ。
今日はこれをここまでやると決め切ってそれを行う。
それによって受動的な行為が減っていく。
今日はやることやったので何をしても良いと思えば、自動的な行為を受動的な行為とみなすことはなくなる。

虚無を埋める自動行為が受動行動になる瞬間

例えばデジタルデトックスで虚無感を感じやすいのは、人間の24時間に対して、自動的な行為を排除しても意味的な行為を行うとは限らないことと、現れた隙間時間に対してそれを埋め合わせる術を持っていないからだ。
デジタルデトックスをしたって何かを主体的に行うことを約束したわけでもないし、これをこれまでにやりますと自分と約束するプログラムも組み込まれていない。
そうなると、まず隙間時間と対峙することになる。
そこには大きな虚無があって、自分自身という存在を手放しに埋めることはできないということがわかる。
自分一人の妄想だとか想像で自分の意味を埋めることはできないし、意味のある行為を想像してもそれらは全て「意味」という概念からすると陳腐な、読書とか、散歩とか、英語の勉強とか、ピアノの練習とか、そう言ったものばかりである。
そうなると何か意味のある行動を探し始めるのだけどこれが極めて困難で、そうやっているうちに、目先の問題の締め切りが迫ってくる。
これは正直「デジタルデトックスが効く人」で一般的な挙動なんじゃないかと思う。
効かない人もいてそう言った人は個人的に非常に論理的な人が多いなと思う。
気分屋じゃないというか。
もちろん気分屋ではあるんだけど、それよりもプライドとかメンツとか論理みたいなものを重視する。
(「こっちの方がいいに決まってるじゃん。」とか言えちゃう人。)

この隙間時間を人間は埋めようという作用がやっぱりある。
パスカルがいうように、僕たちは「部屋のうちに休んでいることができない」のである。
そしてそれは、僕たちが無意味な世界で、無意味な存在であることに起因するのだけど、不思議なもんでそうであっても、おもろいもんはおもろいし、変なものは変で好き、いろんな発想を知れることは最高の体験なのである。
ここに人間の「意味製造機」たる所以があると思う。
僕はこう言った意味のある行為で人生という虚無を埋めればいいんだろうなと思う。

受動的にならないために、約束をして宣言をする

でも同時に先ほどから述べてきた受動的な行為には注意をする必要がある。
これは、意味とかそういうこととは別に、そういう仕組みに人間はなっているような気がする。
ここまでやると明言する、約束する。そうすることで、その後の時間が自由な時間になる。
虚無の時間になる。
虚無の時間は勝手に埋まっていくのだけど、それが自動的な行為である。
僕の場合はゲームや散歩やスマホだと思う。
これらが勝手に僕の人生を埋めていってくれる。

もし、それが嫌なら、また新たに宣言をして実行をしていくことで意味を獲得できると思うし、僕はそれが無意味だとは思わない。
意味があると思って実行したものからは、どこが意味がなかったのかなどの学びを得られる。
自分の意味製造機の仕組みをどんどん学ぶことができる。

結論

人間の時間には、無意識にでも「意味」を感じているもの、自動的に行なってしまうこと、虚無の時間がある。
基本的に、みんな「意味」ある行為を行なって生きていて、自動的に行なってしまう行為はそれらの隙間を埋めるように存在している。
性質として、意味ある行為は難しくて、自動的に行う行為は簡単。
意味ある行為をやっているときは健康的だが、自動的に行う行為は意味ある行為が頭に常駐しているとしんどくなってくる。
虚無の時間は普通に虚無。
この時間をきちんと順序よく組み立てることが大事で、そこでのキーワードは約束である。

流れを説明する。
まず悪い流れだ。
意味を感じているものって結構実行が難しくて、それよりも精神的負担の少ない自動的な行為を行いがちである。
でも意味のある行為は曲がりなりにも意味のある行為なので、頭にそれが常駐してしまうと、自動的な行為を受動的で生産性のない意味のない行為と貶めてしまう。
そうするとしんどくなるし、辛くなる。
だから、自動的な行為を禁止すると、今度は虚無の時間が増えて、意味の行為を行う時間が増えるんだけど、意味の行為をあまり長くできない時は、虚無が発生してしまう。

だから、意味のある行為を頭に常駐させないことが重要で、物事を宣言し約束することで意味のある行為が発動する期間を制限する。
そうすることで、虚無の時間を自動的な行動が埋めてもストレスがかからない。
そこでまた受動的な行為で時間を無駄にしたと思うなら、また意味のある行為を約束する。
しかも自分ができる範囲で設定する。

能動的について考えていたんだけど、結局のところ能動的というのは、自分が意味があると思う行為を約束して実行するということだなと思った。




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