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[洋食は日本食] 洋食生活と日本の食文化との関係

近代の洋食化の始まり

 日本は1641年から1853年の200年間、事実上、日本の文化を守るという名目で江戸幕府により鎖国制度がしかれていました。その間に表立って交易があったのは長崎の出島を使ったオランダ貿易のみです。
赤毛で背も高く、青や緑、グレーの瞳を持つ、とびきり白い肌のオランダ人に江戸時代の人々は興味深々だったに違いありません。
彼らの国民性は質素倹約、まじめで勤勉、ストレートな物言いなど、他国の楽観主義と比べると侍社会との相性が良かったのかもしれません。
この長崎の出島を使い鎖国以前では盛んに行われていた国際交流が再びスタートします。鎖国以前には、遣唐使などによりシルクロードを経由し一大国際都市であった唐の都に集まる外国の食べ物が積極的に日本へも輸入されていました。
それらの食べ物は、数々の事情を踏まえながら日本人の口に合う食べ物へと変化をとげ、今日でも日本食として皆さんの口へ運ばれています。
今の形のがんもどき、天ぷら、羊羹、味噌、醤油などは日本の事情を踏まえて出来た鎖国以前に日本に入って来た外国食の一例です。

近代では、幕末から出島に滞在する外国人高官のために“外国人の口に合う”西欧料理が作られはじめました。接待をする日本の高官を通し次第に一般に広まって行きます。
この頃の西欧料理は日本人の口に合うものではありませんでした。同じ食材を揃えることも困難で、見知らぬ料理を聞いては想像で作る料理人の苦労は想像に難しくありません。こうした西欧料理は次第に日本の食材と融合して西洋料理へと変化していきます。

西洋料理と洋食の違い

明治初期、文久3年(1863年)に長崎にあった西洋料理専門店「良林亭」-りょうりんてい-が日本で初めての西洋料理店と伝えられています。
店主である草野丈吉は、18歳のとき出島のオランダ商館で雇われオランダ人の世話役として雑用、皿洗いなどを経験し、オランダ人と寝起きを共にし西洋料理の調理法を学びました。甲斐あって24歳で開業。店は6人までの完全予約制。直接足を運び予約を取りに行かなくてならない不便さの中、著名人も集まる高級店として連日繁盛していたそうです。唯一の西洋料理店として長崎奉行の外国人接待にも使用されていました。

出島から始まる西洋料理は、日本の食材、日本人の感性と融合し徐々に洋食へと変化をとげます。西洋料理と洋食の違いは何なのか?明治以降、西洋料理を日本に定着される過程で、そろわない材料を在り合わせの日本食材で補い、見たこともない食べ物を創意工夫して日本人の口に合う様に作った和洋折衷料理、それが洋食です。

当然のごとく、数々の失敗をくり返し、偶然出来上がった傑作も多く輩出しました。諸説はありますが、日本の家庭料理「肉じゃが」もビーフシチューの出来損ないから出来た国民食といわれています。
若い頃、イギリスに留学した海軍司令官「東郷平八郎」はポーツマスで食べたビーフシチューが忘れられず、戦艦の料理長に「ビーフシチュー」を作れと命令。ビーフシチューなど食べたこともない料理長は平八郎から説明を受け挑戦はしたものの作り方が全くわかりません。ワインの代わりに醤油、砂糖で甘く煮るなど無い食材の代わりに在り合わせの材料で作っていきます。その時、材料として入れた具材はジャガイモ、ニンジン、タマネギ、そして牛肉です。当然、ビーフシチューにはならず出来たのが「肉じゃが」だったというわけです。
失敗作を食べた水兵の間で「うまいじゃないか」と評判になり「甘煮」と名付けられたそうです。任務を終え実家へ帰り家族に食べさせたその味は、各家庭に伝え広まり昭和40年頃には「肉じゃが」という家庭料理が広く定番になったようです。

西洋料理と洋食の特徴、その例

西洋料理と洋食に共通する特色としては、鳥獣の肉を主材料とすること、油脂類、香辛料を多く使い、穀物を粉にしてパンの形で食べることなどがあげられます。
大正時代ポークカツレツと呼ばれたとんかつは、少量の油とフライパンによる揚げ焼きのビーフコートレットをモデルに、油で全体をからりと揚げる天ぷからヒントを得た和洋食です。ご飯と食べることを前提に作られたとんかつは、今でもご飯に味噌汁、漬け物が定番のセットです。魚介にはフライの言葉が当てられ使い分けがされています。パン粉はPANKOとして英語圏でもパン粉です。これも日本食であることが伺えます。
付け合わせのキャベツは日清戦争で人手が取られ、少ない人数で手っ取り早く付け合わせを作るため目の前のキャベツを千切りにしたのが始まりで、とんかつとの最高の組合わせになりました。海外でキャベツを生食する文化はあまりありません。
ビーフステーキから「テキ」と呼ばれた調理方法は豚肉をステーキにして「トンテキ」などと呼ばれました。これも日本食です。

まだまだ続く和洋食の嵐

和洋食の他の例としては、オムレツが明治初期に「西洋茶漬け」として東京浅草の会円亭で売られていました。名前も自分たちに馴染みのある料理を参考に名付けられ、馴染みのない一般のお客さんにどのように伝えるか苦心していたようです。明治、大正にかけてオムレツは洋食の代表的なものの一つになり、店のまかない料理「ライスオムレツ」から「オムライス」が誕生しています。

喫茶店でも定番の「ナポリタン」。戦後の進駐軍にパスタを食べさせるため手に入る食材でトマトソースに見立てたものをハムやパセリで作ったものが、現代ではケチャップでお馴染みの「ナポリタン」です。

謎の洋食ドリアも米なしでは食事が終われない日本で誕生します。
ホテルニューグランドの初代料理長サリー・ワイルという方が考案した料理ださそうです。ドリアはグラタンぶっかけご飯、GKGです。

日本人なら一度は食べたことのあるジャガイモのコロッケ。フランスのクリームクロケットをモデルに1917年(大正6年)、東京「長楽軒」で作られました。ここのコックだった阿部清六が関東大震災後の1927年(昭和2年)に開業した「チョウシ屋」という精肉店で販売。それ以来、肉屋といえばコロッケとなっています。良質なラードで揚げられる肉屋のジャガイモコロッケがおいしい理由です。

親しみを込めた和洋食に異変が

明治から大正、昭和にかけ和風に変化してきた洋食は、昭和の戦後、アメリカの食糧援助で大きく変化します。
食糧難とされた都市地区では、その当時アメリカでは余ってしかたがなかった小麦や脱脂粉乳を物不足の日本で消費することが決定しました。
馴染んだ食事を急に変えられない大人より、変化を受け入れやすい小学生を対象に学校給食の完全パン食化、水で薄める脱脂ミルクの配給がはじまりました。
ついでに米ばなれ推進キャンペーンも打たれ、「米を食べると頭が悪くなる」などのキャッチコピーも広く宣伝されました。当然、そんなことはありません。
1970年代まで小学校の完全パン食による給食は続き、肉、脂、乳製品、砂糖、小麦を好む現代人の食志向の基盤ができあがりました。

戦前にはほぼ無かったアレルギー症状や成人病などの原因は、”本格志向”のキャッチコピーにより、原材料を輸入に頼り食生活をより海外に合わせる食文化の入れ替えも大きいな要因の一つとも思われます。日本洋食の最大の特徴は、日本の食文化を基礎とした「お米をおいしく食べるための料理」ということです。
日本人はどうしても食事とお米が切り離せず、自然とお米に合う味付けへとあらゆる料理を変化させてきました。どんなものでもお米をイメージし味付けされる料理が日本食化することは不思議ではありません。

欧米には主食という概念がなく、料理の中心はほぼ肉などの動物性タンパク質であり、パンやお米は野菜と同じ添え物です。
人間は地域差で起こる民族の違い、肌の色や言語の違い、習慣、思考の違いだけでなく、その土地の食べ物を長い間食べ続けたことによる体質の違いを持っています。この事実を知らない日本人にとっては、流行りのもので食生活を変え、自分の土地に無いものを摂り、体質に合わないもので自分を賄っていることに気が付くことができません。対照的にオシャレに思える欧米では自国の食生活を頑なに守っています。ヨーロッパには日本の様な即席の食べ物を売るコンビニはなく、「自分で作れるのにわざわざ買って食べる日本人は金持ちなんだね」と思われています。

和洋食のメリット

日本の食材と融合する和洋食には大きなメリットがあります。それは、気軽に食べられること。タンパク質や炭水化物を多く摂ることが出来る。カロリーは高めですが育ち盛りの子供のいる家庭では和洋食は大変重宝していると思います。和洋食は欧米の肉食文化を日本風に進化させてきたため日本人が肉類をおいしく食べるのに適している方法といえます。
基礎となる西洋料理とは洋食化の時代に関係のあった、イギリス、フランス、イタリア、東南アジア、欧米各国の料理を指します。

食生活の地域への適応

ヨーロッパを例にした海外の食文化では、肉類の他、乳製品がよく使われます。付け合わせに生野菜に限らないサラダ、副菜に芋類や穀物、果実類を組み合わせます。それらは自分たちの住む地域で入手できるものであり、手に入るものを食べる食習慣として根付いたメニュー構成です。西洋の料理では肉類に合わせたソースが発達し、味付けは肉類に合う塩や胡椒が多用されます。そうした香辛料の多用も腐りやすい動物性タンパク質の臭みを除き保存性を高める工夫であり、水代わりに酒類を飲む習慣は水に乏しい土地で腐った生水を避ける工夫です。
農耕や水に乏しい風土に住むための知恵であり、アルコールに強い体質を作る理由が住む土地にあることが容易に理解できます。

対する日本では、豊富な水と土地に合った稲作を中心とすることで農耕による収穫量を安定化させ、豊富な海産物を中心としたタンパク源が我々の体質を作ってきました。開国以前の日本の食糧自給率は100%です。農耕による穀物中心の食生活では塩分を体内から排出するカリウムの摂取が過多となりやすく、塩辛いオカズを摂ることでバランスが取られてきました。
現代の減塩ブームはそういった食事バランスを考慮していない流行りです。
バランスを崩しむしろ病を作る可能性を持っています。
塩には保存性を高め、タンパク質の分解を促し熟成による旨味を作る働きがあります。減塩にこの特性は期待できず、保存料、旨味調味料の添加が必要となります。
減塩が健康というのは幻想で、不健康なものを多く摂ってしまう危険性の方が高いと思います。シンプルなものが塩辛いのは塩気が直接舌に当たるためで多くは食べられません。減塩商品は塩辛くない反面、不健康なものを多く摂ってしまいバランスが悪い。製造側では添加物により保存性と味を補うことが出来るため、比較的質の低い材料でも製造できる経営的利点があります。それは消費者の健康を考えたものではないことに注意が必要です。
法的に問題があるかではなく、気持ちよく食べられるかが問題です。
今の日本でシンプルなものを食べるには自分で作るか、生産者と直接つながるしか方法はありません。
それには自分の住む土地、我々の食文化を知る必要があります。

まとめ

明治以降、日本の近代化と共に一般化してきた洋食。始めはパンが饅頭にしか見えずそこからアンパンを作り、フライは天ぷらに見え、文明開化の代名詞である「牛鍋」は猪をクジラだと言い張って食べたボタン鍋などから日本式調理方法で応用を試みました。西洋のものを和で解釈することで日本文化となったのです。
現在では日本の食材を使わず、食材と海外の食文化を丸ごと入れ替えることが盛んとなり、日本の風土や創意工夫が感じられなくなりました。

こういったことを農耕に例えると、化学肥料を多用することで土着菌が死滅してしまい、いずれ枯れ果ててしまう土地のようで不安を拭えません。
その土地で育つ作物は自力で成長することができず絶えず肥料を必要とします。
それを外国に依存するのは止めておいた方が賢明です。

他国の食習慣と自国の食習慣を入れ替えるのではなく、自国の食文化を知り、食材の組み換えによる創造が我々独自の日本式食文化をこれからも作って行くように思います。若い世代にはもはや未知の領域となってしまった日本の食文化。率先して伝えていく努力が必要なようです。





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