相手の為にも
「相手の為にも、指摘してあげたほうがいい」。
過去に何度か言われた記憶が、
ぼんやりとあるその言葉について最近よく考える。
何度か言われた、と書いたけれど、
何度か言ったこともあっただろうし
もしかすると何度かではなく、何度も言ってきたかもしれない。
「かもしれない」と書きながら
はっきりと、過去に自分が言った記憶を思い出した。
自分以外の人の、
仕事の仕方について、
人に対しての接し方について、
食生活について、健康管理について。。。
「こうしたほうが、あなたの為にもなると思うよ」
的なことを、言ってきた。
その時はそれが自分の正直な気持ちだったから
そう口にしていたし、その時の自分を後悔しているわけではない。
けれど、最近は、
その言葉を聞くと違和感を感じる。
胸のあたりがモヤモヤする。
それは「あなたの為にも」という言葉に込められた
「前提として、わたしのために」という、
発する人の思いを感じやすくなっているからかもしれない。
純粋に、本当に「相手の為だけ」を思って
相手に何かを伝えたことが、自分にはあっただろうか。
過去の記憶を全て覚えているわけではないから
わからないけれど、もしかすると、ないかもしれない。
他者に何かを伝えるとき、ほとんどの場合、
そこには自分の主観が入る。
自分のこれまでの記憶、つまり体験経験から
無意識に作られた価値観を通して相手と対話をする。
良い悪いの判断を一切することなく
ニュートラルな状態で、人と向き合うことは簡単なことではない。
実は先日もある人に、「そんなに調子が悪いなら、
早く病院に行った方がいいよ。
病院の先生に診てもらったら
それだけで安心出来るし、
自分自身のためにも絶対にいい」と言った。
でも言ってからすぐ、違和感を感じた。
結局安心したいのは、その人ではなく自分なのだ。
もしその人に何かあって、
自分が嫌な思いをするのが怖いからそう言っているのだ。
だから、すぐに訂正して、
「私が、調子の悪い状態のあなたを
近くで見ているのが嫌だから
あなたの為ではなく、私のために病院に行って」と伝えた。
そうしたら、渋々と病院に行ってくれた。
どれだけ気をつけていても、やっぱり
「相手の為だけ」を思って言葉を伝えるのは、今の自分には難しい。
けれど、都合よく言葉を使わず、限界の限界まで、
その時に自分が正しいと思える言葉を
探して、選んで、正直に伝える努力はできる。
その行為にどんな意味があるかはわからないけれど
そういうことを積み重ねて日々を過ごすことが
自分は、とても心地がよい。
そういえば、何年か前にテレビ番組で
お笑い芸人の南海キャンディーズの山ちゃんが、こんなことを言っていた。
「怒らない先輩が増えていく中、
僕だけ毎日後輩を怒ってるんですけど
もうそろそろそういうの、やめたいんです」。
それを聞いた共演者の方の
「どうしてですか?怒ってくれる先輩は
貴重な存在ですよね?」という質問に対して、
「だって、本当に心底相手の為だけを思って
怒ることなんて滅多にないと思いませんか?
少なくても、僕は単純に自分がムカつくから、怒っています」。