【映画評】 諏訪敦彦『風の電話』
『風の電話』(2020)
ロードムービーの形式をとるのだが、いまだ未解決の震災の傷跡だけでなく難民問題をも封じ込める日本の姿をも露わにする。 ハルを通して時系列で叙述されるそれらはロベール・ブレッソンを想起させもし、彼女に少女ムシェットの姿を重ね合わせながら、心に傷を負ったハルを愛おしく思い泣いた
俳優モトーラ世理奈。
『少女邂逅』(2017)も素晴らしかったけれど、『風の電話』のハル役は秀逸である。
背景音としての風のざわめき。 とりわけ、ハル(モトーラ世理奈)の幻視の後の風のざわめきによる現実、 そしてラストの長回しの背後にある風のざわめき。 ざわめきという音声は、家路につくわたしの耳元でいつまでも真実のしるしとして静かに通奏していた。
記憶や体験としての時間は抗いようもなく身体に堆積する。堆積とは時間のある種の重さのことであり、生きている以上、重さとしての時間を身体は引き受けるしかない。そして引き受けることで時間はさらに重層化される。そこから身軽になるには、死を選択するか、それとも、『風の電話』のハルのように、死者に向かって「現在」を語るしかないだろう。
この場合の「現在」とは身体ということ。高校3年生の制服をまとっているハルの身体。あのとき手を離してしまった身体。 「高校3年生になったんだね」という時間の経過と時間の停止としての制服をまとった身体。そして時間が堆積された大地に横たわる停止した身体。
クルド人の難民問題が語られるという意味で、本作は、邦画には稀な難民映画ともいえるのだが、そもそも3.11後の日本人は、本質的には難民なのだという認識を持たなければならないのだ。
クルドという幻想の国土。生まれた土地で死にたいという父・西田敏行と福島原発、自動車生活、不定住の息子。土地、時間の堆積、停止した時間。高校三年になった、という時間の推移。
本作は、少女(ハル)の身体を依りしろにしたロードムービ(=時間の経過)であり、時間の回帰と停止・持続、そして可能性(=未来)の物語なのだ。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
諏訪敦彦『風の電話』予告編