【映画評】 ホン・サンス監督作品…時間と距離の覚書(1)…『次の朝は他人』『自由が丘で』
中国生まれの朝鮮族3世で、現在は韓国在住のチャン・リュル(張律 장률 1962年〜)の日本を舞台とした作品『福岡』(2019)。本作品がベルリン映画祭で上映されたと耳にしてずいぶん月日はたつのに、わたしは未だに見ていない。いつの間にかわたしの前をスルーしてしまったようだ。それどころか、その5年前に製作された作品『慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ』(2014)を見たのは昨年のことである。アンテナをもっと張り巡らせていればこんなことにはならないと思うのだが、わたしは遅れてくるのが常態の人間なのかもしれない。
それはともかくとして、『慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ』はわたしの感性との浸透圧が良好な作品だった。第一印象としては、チャン・リュルと同世代の監督ホン・サンス(홍상수 1960年〜)の作品群に対置する作品だなと。明確な理由はわからないのだが、ホン・サンス作品と同じく、時間を巡る映画のような気がした。
『慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ』の時間について図式するならば、一日、一晩、そしてあと半日の物語。本作品の時間はこの3つの時間に区分できる。過去は反復されることで強度を増し、それが不在の過去として反復され事態は厄介になる。不意に出現したような時間の交錯をサスペンスと呼んでみたくなった。つまり、『慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ』は、不在として反復される時間の織物としてのサスペンスということである。
ホン・サンス作品にも交錯する時間が出現する。
では、ホン・サンスは、時間をどのように表現しているのか。時間、そして距離を中心に、ホン・サンス監督の6作品を概観してみたい。
『次の朝は他人』(2011年)
『自由が丘で』(2014年)
『正しい日|間違えた日』(2015年)
『それから』(2017年)
『夜の浜辺でひとり』(2017年)
『クレアのカメラ』(2017年)
『次の朝は他人』(2011年)
エリック・ロメール(1920〜2010)監督作品と比べられることの多いホン・サンスだが、なるほど、『3人のアンヌ』(2011)はまさしくロメール的な出会いと分かれである。だが『3人のアンヌ』に先立つ『次の朝は他人』では、マリボダージュ的(18世紀に活躍したフランスの劇作家、ピエール・ド・マリボーの皮輪を多用した恋愛心理劇)なロメールの会話を、ホン・サンスは、韓国の骨太の会話へと変相させている。
それは存在の深部から生み出されるかのようでもあり、人の感情や欲情、俳優の言葉の襞に、恋愛へと繋がる水路を見出すことができる。そう、恋愛とは水のように清々しく、清廉なのである。反復される出会いと別れは変形され、それが偶然なのか必然なのか、誰にも分からない。恋愛のエクリチュールの瑞々しい表出を、『次の朝は他人』で描き出したことになる。
『自由が丘で』(2014年)
複数ページに及ぶ手紙をうっかり階段から落とし、拾い集めたものの手紙の順番が分からなくなった。しかも、1枚拾い忘れていることに気づかなかったとしたら。
例えば拾い集めた順番の分からない手紙がn枚あったとしよう。すると、手紙の読み方は単純計算でn!(nの階乗……たとえば5枚の手紙があるとすれば、5!=5×4×3×2×1=120)通りある。つまり、元の手紙には唯一の時系列しか存在しないのだが、ページが不明になることで、n!通りの時系列を獲得したことになる。それは主人公のモリ(加藤亮)が手にしていた『時間』(吉田健一著)を呼び起こすのだが、『自由が丘で』がいくぶん複雑な様相を呈しているのは、このためであるように思える。
いや、こういった時間の処理は他の作品でもホン・サンスが得意とするところであり、吉田健一の『時間』はたまたまモリが手にしていたに過ぎないかもしれない。つまり、俳優・加瀬亮が、韓国ロケに持って行ったから映画にもたまたま登場した書籍に過ぎない。いや、はたしてそうだろうか。やはりこのエッセーが本作品の時間を誘引しているようにも思う。
時間の複雑さとは対照的に、ストーリーと登場人物の心理的ポジショニングのシンプルさといおうか、ホン・サンス作品の簡潔さとでもいうべきフレーム内の事態は見事である。
この場合の簡潔さとは距離のことである。それは、ギョーム・ブラック(1977〜)監督作品の距離の〝遠さ〟と対照的なほどに距離の〝近さ〟の簡潔さなのである。登場人物達は出会うとともに、あたかも旧交を暖めるかのように仲良くなる(=肉体関係を結ぶこともある)し、モリの書いた手紙を階段から落とし、n!通りの読みのためなのか、恋人のクォン(ソ・ヨンファ)はモリとの再会を先送りにするものの…このあたりはギョーム・ブラックだ…、ラストのモリとクォンとのあっけらかんとした再会は、これまでの時間の遅延などまるでなかったかのような距離の〝近さ〟を易々と演出してしまうのである。
ホン・サンスの撮る映画は、見る者に抗う術も与えないほどに、まぎれもなく「ホン・サンスの映画」となっている。つまり、「ホン・サンスの映画」とは、交錯させることによる時間の〝遠さ〟の仮構と、距離の〝近さ〟という簡潔さのことであると、彼の映画は告げているのである。
本作品を初めて見たのは京都シネマだが、再見したのは高瀬川沿いの元・立誠小学校内にある立誠シネマである。『自由が丘で』の家内工業的な手作り感と「立誠シネマ」の設えがどこかでつながっていて、上映に最も相応しい小屋であった。
立誠シネマでの観客はわたしひとり。わたしがいなければ、観客はゼロ。そんなときも上映するのだろうか。観客のいない上映でも物語は進行するのだろうか。映画という唯物…デジタルは唯物と呼べるのだろうか…は見られることで「意味=物語」を発生するのだが、見られることのない映画は、「意味=物語」の発生はおろか、消失すらない。映画とは光である。光の投影がなければ消滅もない。観客がわたしひとりゆえに、余計なことを考えてしまった。
『自由が丘で』はコメディである。観客の多い京都シネマではそうはいかないのだが、立誠シネマでの観客はわたしひとりだから、人を気にすることなくゲラゲラ笑ってしまった。
登場人物たちの視線は奇妙に交差しながらも微妙にズレる。そのズレが面白くて仕方ない。それはエリック・ロメールを思わせもするのだが、韓国人、あるいはホン・サンス特有のものなのかもしれない。ホン・サンスの本性は微妙なズレから生ずるコメディ。重いと思って持ち上げた荷物が軽くてすっ飛びそうになった、という経験があるけれど、そんなズレ感覚だ。それでいてドタバタではない超一級品のズレ。しかもこのズレを時間へも流し込ませることで時間の遠さを仮構しようとするから、最高に面白いのである。
繰り返しになるが、ズレは、モリの恋人であるクォンが、モリの手紙を階段からうっかり落とし、順番が分からなくなることから始まる。しかも、1枚拾い忘れていることにクォンは気づいていない。このことで、時間のズレと欠如を発生させる。そこには、モリの読んでいる吉田健一のエッセイ『時間』の反照がやはりあるのだと、再見して確信する。
エッセイ『時間』によれば、わたしたちは時間の流れの中で生きおり、そこから逃れることはできない。しかし、時間は隠蔽され、意識に表れることはあまりない。より正確に述べるなら、時間は流れるのではなく、わたしたちが現にいるその場所にいるのを感じるに過ぎない。そして、時間は流れるというよりも、〝動く〟のである。
ホン・サンスは〝動く〟を巧みに構成することで、ズレを生じさせる。n枚の手紙の読みの順列・組合わせ。物語の発端なんてどうでもいい。ただズレを生じさせることで、時間の流れを動かせればいい。ホン・サンスはそれ以外には何も考えていない。極めてシンプルだ。『自由が丘で』はそれができた世界最初の映画なのかもしれない。
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)
《ホン・サンス監督作品…時間と距離の覚書(2)…『正しい日|間違えた日』『それから』》に続きます。
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