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【映画評】 ネオナチ映画、デヴィッド・ヴェンド『女闘士』

ここ10年ほど、旧東ドイツ関連をテーマとしたドイツ映画の上映が多くなっている。今年(2021)はトーマス・ハイゼ監督(1955〜)の218分の長編『ハイゼ家 百年』(2019)の上映もあり、ドイツ現代史を問い直すとともに、これら一連の動きを日本に引きつけ、日本の現代史への問い直しの機会ともなっている。
例をあげれば、日本統治下の台湾から西表島に移住した人たちを撮ったドキュメンタリーである黄インイク『緑の牢獄』(2021)、現在のベトナム人技能実習生の取材をもとに技能実習制度の問題を描いた藤元明緒の劇映画『海辺の彼女たち』(2020)がある。両作品から浮かび上がってくるのは、日本の闇ともいえるものである。それは忘却された闇であり、封印しようとしている闇である。この闇を掘り起こし問い直す試みが、両作品といえる。闇は凝視という意志がなければ見えてこないのである。
アイデンティティーを単一性への還元する単純な志向ではない、国家や民族を超えた自己の在り方を糾す本質的な問いが必要である。そのことをわたしたち日本人に突きつけた映画の出現である。

黄インイク(1988〜)
沖縄をフィールドとした作品を制作する台湾・台東市出身のドキュメンタリー監督。長編第一作は『海の彼方』(2016)。
藤元明緒(1988〜)
在日ミャンマー人の移民問題と家族をテーマに、フィクションとドキュメンタリーを越境するスタイルで描いた『僕の帰る場所』(2018)で知られる監督。

ドイツ映画に戻そう。
ドイツでは東西ドイツ統合後、社会の混乱や社会格差の影響でネオナチが顕現化し、それに関連する映画が多く撮られるようになった。冒頭に述べた『ハイゼ家 百年』の監督トーマス・ハイゼの日本上映作品としては、『一体何故この連中の映画を作るのか?』(1980)『マテリアル』(2009)がある。トーマス・ハイゼは旧東ベルリン出身で、両作品とも統合の混乱とネオナチの台頭を描いた作品である。

数年前、『帰ってきたヒトラー』(2015)が日本でもヒットしたからご覧になった人も多いに違いない。監督の名はデヴィッド・ヴェンド(1977〜)。彼のポツダム映画大学卒業制作として完成させた長編第一作として、ナオナチの女性を描いた『女闘士』(2011)がある。日本ではドイツ・マイナー映画祭で上映され、わたしも鑑賞の機会を得ることができた。本稿はそのレビューである。


《デヴィッド・ヴェンド『女闘士』について》

上下に分断された映画冒頭のフレーム構造について記さねばならない。
フレームの上部に海面、下部に空という二分化された構造。上下を反転させたのかと思いきや、注意深く見ると、海面はさらに上部の砂浜に波を打ち寄せ、下部の空には鳥が反転することなく飛遊しているという不思議な擬似反転構造。
カメラはゆるやかに上方へとパンしながら前進する。すると空の映像は下方へと消え砂浜の映像となる。砂浜にはふたりの若い女。一人は頭部から血を流し、おそらく死んでいるのだろう。そしてもうひとりの女は、死体のそばで憔悴しきったような表情をして泣いている。

続くショットは、大きなリュックを背負って砂浜を走る少女。少女は年老いた男のもとに駆け寄る。男は少女のリュックを下ろしてやり、リュックの中の砂を捨てる。そして、少女に「強い」と賞賛の言葉。
どうやら、訓練のようだ。男は少女の祖父。彼は戦中世代で、ナチの親衛隊の一員であったことが後の物語からわかる。そして、少女は冒頭の浜辺で血を流した死者の少女時代であることも判明する。
彼女の名はマリザ(アンナ・レフシン)。マリザの母は祖父から虐待を受け、親の愛情を感じることがなかった。マリザも両親が共働きで、両親はいつも不在。そのため、祖父に育てられたといってもいい。祖父はマリザを「強い」子に育て、自分の反ユダヤ思想の血をマリアに受け継がせる。つまり、ネオナチとなるべく、女闘士として育てたのだ。

成人になったマリザはスキンヘッドにし、ネオナチの仲間と外国人排斥の先鋒となる。移民、難民に対し、「出て行け」と、ところかまわず暴力をふるう。マリザは母親のスーパーの手伝いをしいるのだが、移民や難民は、たとえ客であっても無視をするほどの排斥主義者。

あるとき、店から追い出したことのあるアフガン難民兄弟に乗用車を傷つけられる。マリザは兄弟が運転するバイクを見つけ、乗用車で接触し大怪我をさせる。兄弟のうち、兄の方は死んだと思い込む。その後、弟の少年に近づき、兄弟がたどってきた境遇を知ることになる。

はじめは嫌悪の対象でしかなかった移民や難民。マリザは彼らのことを知るにつれ、自分が犯した罪の意識が芽生え、ネオナチの歪んだ意識に疑問を抱き始める。

マリザはレイシストとして活動してきた仲間たちに反旗を翻し、ネオナチのアジトにひとり乗り込み、排斥主義者らを襲う。
マリザは仲の良いネオナチの女とともに海岸に逃げる。リーダー格の男がふたりを追跡し、マリザは撃ち殺されるという結末である。

ポスト・トゥルース(注*)の時代としては興味深いテーマなのだが、映画作品として見るならば、物語の進行は紋切り方で、見せることへのドラマチックな傾斜が作品を凡庸にしている。そして、極めつきは冒頭の浜辺のシーンの反復で終盤をむかえることである。浜辺に横たわるマリザの死体と、そしてかつてはマリザとともにネオナチのメンバーだった憔悴した若い女。いわゆるループ構造である。冒頭のシーンが絶えず頭をよぎりながらの物語進行を見るわたしなのだが、この終盤のシーンで腑に落ちたということはない。これが凡庸の極めとしか思えないのだ。冒頭の擬似反転構造がわたしの脳裏に浮遊し宙づりになったままなのである。

(注*)ポスト・トゥルース(post-truth politicsポスト真実の政治)について
2016年発行の「World of the year」(オックスフォード大学出版局)には「世論を形成する際に、客観的事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況」と定義している。
たとえば、2016年の英国のEU離脱の是非を問う国民投票結果や、同じく2016年アメリカの大統領選挙でのトランプの当選。『女闘士』は2011年の制作なので、ポスト・トゥルースの文脈とは異にするのだが…。
ちなみに、日本の政治状況は2016年以前(とりわけ安倍政権…アジアや欧州のメディアは極右政権と評している)からポスト・トゥルースの時代に入っていると言われている。

だが、本作で見逃してはならないのが越境である。マリザは祖父の反復としての存在なのだが、彼女は祖父を越境(もしくは払拭)するためにアフガン難民の少年という越境者を必要としたのである。越境の二重構造(祖父を越境すること、そしてアフガン難民という越境者)は、ここにとどまるのではなく超えるということ、つまり自己の死という越境することの困難を示す二重構造でもある。そして冒頭映像の擬似反転構造、これもその後の展開の予兆としての二重構造である。

本作の擬似反転構造の反復に対する批判はやめよう。この擬似反転構造は世界の二重構造を見出すために必要とているのかもしれない。
自己を越境し、他者を越境させる二重構造。世界と和解するために、二重構造の扉は開けておいたほうがいい。
排斥してはならない。そのために、わたしたちは世界の困難をも引き受ける覚悟が必要である。

マリザを演じたアリーナ・レフシンはまさしくドイツ人という面立ちで、ドイツ的演技を今後も期待したい。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

『女闘士』予告編

黄インイク『緑の牢獄』予告編

藤元明緒『海辺の彼女たち』予告編

トーマス・ハイゼ『ハイゼ家 百年』予告編


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 amateur🌱衣川正和
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