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【映画評】 菊地健雄監督『ディアーディアー』Dear DEER。《シカ》という限定辞、そこからの解放。

(その1)

子どもの頃、就寝前の寝床で、母親が語る不思議な昔話に聞き入ったことがある。どこか遠くの、決して辿り着くことのできない話のようにも思えたけれど、踏み込んではいけないよと言われている裏山から、気流とともにわたしたちの所に流れてくる話のようでもあった。もしかすると、日常とどこかで触れ合っているのではないかと、母親の昔話は、期待と怖れでわたしの気持ちをザワザワさせた。

現実世界と非現実世界。その境界面にわたしたちの手が触れたとき、霊妙な精と交感し、異能とでもいうべき浄化された世界をわたしたちは感受する。昔話とは、時間と空間を超え、ここでもあり、あそこでもある、そんな世界へと誘ってくれる説話のことだと思う。 

展示室に赤色系のコートを着たひとりの女(菊地凛子)。女の動きとともにカメラは右から左へと移動する。古い肖像写真と並んで、鹿のパネルが一枚並置されている奇妙な展示。女は鹿の写真を見つめる。どうやら街の郷土資料館らしい。閉館を告げる館内アナウンスとともに「蛍の光」が流れる。女は何を思ったのか、急ぐように展示用ディスプレーのスタートボタンを押す。ディスプレーにアニメの鹿が現れ、鹿にまつわる逸話がアニメーションで表示される。

この街には古くから親しまれてきたリョウモウシカが生息していた。紡績工場ができ、自然の変化の末、大正末期に姿を消した。地元の子どもたちが目撃し写真に収められたが、その後、個体は発見されなかった。今では、別の動物だったのではないかと思われている、とアニメーションは語る。 

母親の昔話の語りを思い浮かべたのは、姿を消したはずのリョウモウシカが子どもたちに発見され、それでいて、その後、個体は発見されなかったという語りである。そして、パネルに描かれた鹿が唐突にアニメとして動き出すという面白さ。そこには、とんでもない物語に紛れ込んでしまうのではないかと予感させるものがあった。

アニメは序奏であり、女の観客が押したスタートボタンの真の始まりは、次のショットだ。

それは大きな扉を開ける工場の暗い内部から撮られたショット……そういえば、ファスビンダー『ベルリン・アレクサンダー広場』も扉を開らくことで始まり、それが主人公・フランツの、新たな社会への出発だった……扉を開けるのは作業着姿のひとりの男。郷土資料館の序奏の後、このショットで真の物語は始動する。工場は工作加工の町工場らしく、男の旋盤機械を操作する無表情な姿がドキュメンタリー映画のように丁寧に映し出される。

続くショットは、バスの座席に沈み込むように腰を下ろした女のショット。窓辺に頭を凭せかけ、憂鬱な表情を浮かべている。最後部の座席にはひとりの男がおり、神経質に降車ボタンを押している。男は運転手のもとに駆け寄ったかと思うと、「気持ち悪くなったから止めてくれ」と懇願する。窓辺に頭を凭せかけていた女は、その男が兄であると気づく。

長閑な田園地帯の一本道のパス停に佇むバスの中にいた女と男。目的地ではない停留所で降りたかのような浮かぬ様子の二人である。一台の車が到着し、運転席には旋盤加工工場の男。彼らは三兄妹のようだ。

工場の男が長男の冨士夫(桐生コウジ)、バス内の神経質な男は次男の義夫(斉藤陽一郎)、憂鬱顔の女は妹の顕子(中村ゆり)。どうみたってデコボコの、調和という言葉から最も遠くにいる三兄弟。彼らが纏う物語とは如何なるものなのか、見ているわたしは不安でならない。しかし、だからこそ彼らの物語を覗いてみたくもなる。

少し長めの説明になったが、これが菊地健雄監督『ディアーディアー』の冒頭のシーンである。英語タイトルは『Dear DEER』。

わたしはこの映画を見た日、次のツイートをした。
「今夜は『ディアーディアー』を見るシカない気分。だから夕方まで真面目に頑張るシカない。シカないって、鹿はどこに消えた?」 

《シカ》の文例の唐突なツイートと思われるかもしれないけれど、いたって真面目な気持ちでツイートした。『ディアーディアー』のプロデューサーで、三兄弟の長男役でもある桐生コウジさんの、「やるシカない」で始まるプロダクションノートに刺激され、《シカ》の文例をツイートしたのだ。

プロダクションノート
 《やるシカない》
こういった宣伝がしたかった。予算が無いってのもあるけど、プロの宣伝チームにはできない手作りの良さがある。特報に「もシカしてレイトショー」というコピーを入れた時、上映ないかもって思われないか?などと心配されたが、それはそれでシカたない。
前売券の特典が「シカせんべい」になったのも当然の流れだった。ただ、数量限定というか賞味期限があるから、品切れの際はあシカらず。
テアトル新宿に幻のシカを展示。シカは古来から神様の死者、特に白シカは長寿の象徴、風水的にはシカを見ると金運アップなんだとか。
長寿と金運祈願にテアトル新宿にシカを観に行くのはどうだろう。新宿に新たなパワースポット誕生かも。
このシカ、もちろん栃木県あシカがで捕獲されたもの。そうそう、予告編は「たシカにレイトショー」にしたのでご安心を。

『ディアーディアー』プロダクションノートより
(プロダクションノートから)

《シカ》を至る所に織り込んだ、刺繍のように色彩豊かな、シカバリエーションともいえるプロダクションノート。そこには失速感というか、自虐満載のスリリング感があり、桐生さんと菊地健雄監督の人柄が浮かび上がってくるような面白い文章である。彼のノートを読んだら映画を見るシカない。わたしだけでなく、プロダクションノートを読んだ者なら、みんなそう感じるに違いないよなぁと思うシカない。

 ところで、わたしのツイート文、決して唐突な内容ではないと、映画鑑賞後、確信した。《シカ》の文例、と述べたけれど、正確には《〜しかない》の文例である。

「〜しかない」とは、拒む術もないほどに逃げ場のない限定行為。理性を超えたところでギリギリ世界と繋がることができる、そんな切羽詰まった交通路しかないという限定である。

『ディアーディアー』は《シカ》という限定辞の映画であり、限定辞からの解放の映画でもある。それは「鹿はどこに消えた?」という逃れようのないトラウマと、限定辞《シカ》の消滅による三兄妹の解放の映画である。幼年期のトラウマと、限定辞《シカ》の消滅が、滑稽なほどに壮絶に描かれた映画が『ディアーディアー』なのである。

この続き(その2)を述べる前に、限定行為「〜しかない」を予告編で体感した方がいいかもしれない。
菊地健雄監督『ディアーディアー』Dear DEER(予告編)

(その2)
映画には始まりと終わりがあり、始まりから終わりへの一方的なベクトルが映画の時間である。その間、わたしたち観客は、暗闇の中でフレームを凝視することになる。だが、始まりとは映画冒頭のことでは必ずしもないし、エンドマークが終わりであるとは限らない(近年はエンドマークのない映画が多くなったけれど…)。

『ディアーディアー』の始まりはいつなのか。繰り返しになるが、映画の冒頭の特徴的な箇所を再現してみよう。郷土資料館の閉館を知らせるアナウンスが流れると、拝観者の女は展示用ビデオモニターのスタートボタンを押す。だがボタンの接触が悪いのか映像は流れない。女は急くかのようにボタンを連打し、作動を確認したのか、ビデオを見ることもなくその場から立ち去る。リョウモウシカのアニメーションが流れる。アニメーションが終了するとともにフレームは暗転し、あたかも舞台の幕を開けるかのように、男が町工場の扉を開ける。

ここで注目すべきは、昼間の郷土資料館ではなく、女は何故、閉館のアナウンスをアニメーションの開始としたのかということだ。それは、物語を開始するには、闇が必要だかならのだ。閉館とともに照明が落とされ、館内に闇が訪れる。本論の冒頭(その1)に述べた就寝時の母親の昔話語りもそのことと呼応する。そこには夜という闇が現前していた。伝説化したリョウモウシカの逸話にも闇の現前を必要としたのではないのか。闇のように封印された三兄妹の物語。三兄妹の長男・冨士夫による工場の扉を開けるという行為は、物語の封印を解くための儀式の始まりなのである。『ディアーディアー』には、アニメーションという序奏と、冨士夫による扉の開場という、二重の始まりを見ることができる。封印を解く儀式には、始まりの二重構造を必要したのである。

封印を解く儀式、それは三兄妹のトラウマからの解放である。リョウモウシカのアニメで語られる、シカを目撃し写真に収めた「地元の子どもたち」とは、彼らのことである。その後個体は発見されず、別の動物だったのではないかということで彼らは非難の的となった。発見当初、浮き足立った街は、町境に、「ようこそ、リョウモウシカの街」「さよなら、リョウモウシカの街」の大きな看板が建てたのだが、リョウモウシカの存在が確認できなかったことから、「ようこそ、ウソの街」「さよなら、バカの街」とイタズラ書きがされるに至るほど、町民の落胆は大きかった。三兄妹は町民から嘘つき呼ばわりされ、それがトラウマとなったのである。トラウマの封印を解くための、三兄妹に降りかかる残酷なほどに滑稽な儀式が、『ディアーディアー』と言える。

(プロダクションノートから)

父の疲弊した町工場を継ぎ、保守でいるという選択肢しかなかった長男の冨士夫。トラウマによる人格障害で街を離れ、病院で暮らすという選択肢しかなかった次男の義夫。高校生時代の男関係・人間関係の崩れから小説家志望の男と駆け落ちし、東京で暮らすという選択肢しかなかった妹の顕子。そんな兄妹だからすすんで帰郷することなどありえない。彼らが一堂に会するには、特殊な事態が必要である。それは父の危篤である。父の危篤が、彼らに帰郷する〝しか〟ないという選択を生じさせるのである。

時間が経過するなかで、わたしたち映画を観る者は、リョウモウシカの〝シカ〟から限定辞〝しか〟への推移という遊戯性を、映画の中に幾度も感じとることになる。この遊戯性こそが、作品をエンターテイメントたらしめている。『ディアーディアー』とは、〝しか〟の遊戯性のことであると規定しても過言ではないだろう。さらに、〝しか〟と戯れてみよう。(以下、記号〝 〟は省略)

帰郷後の出会い、そこには遭遇という装置が仕組まれている。遭遇とは偶然の出会いではない。人智の及ばざる、これしかない在るべき出会いが遭遇である。遭遇しなければ何も生じたりはしない。遭遇したがために新たな事態を生じさせ、物語には必然とも言える出会いが、遭遇という装置である。三兄妹が父の入院している病院から家に戻ると、そこには西野が書類を持って冨士夫の帰宅を待っていた。西野は不動産業に携わり、街の大規模開発のため、冨士夫の工場の用地買収を企てているのだ。西野は、顕子が高校時代につきあっていた男であり、これが遭遇による顕子との再会である。顕子と西野と再会させるには、顕子の久々の帰郷を理由に、西野に電話させるなりの、ある種、正当な手法があるだろう。だが、そのような両者の意図あるいは意志による直接的な再会を回避している。病院からの帰宅という三兄妹の工場への位置移動と、用地買収交渉という西野の工場への位置移動による、相互に独立した二つの到達点の一致=遭遇という出会い装置を物語は挿入している。遭遇が二人を動揺させ、再会という事態をより複雑なものにしている。それは、過去へと遡る、大都市では類を見ないであろう同じ時間と空間を共有するしかない人々の、物語への不可避の侵入を予兆させることになる。

この場合の、人々の物語への不可避の侵入とはこういうことだ。ボーイー・ミーツ・ガール、いや、ボーイでもガールでもなんでも……もちろん動物でも……いい。『ディアーディアー』ではAとBが出会い物語が始まるのではなく、彼ら登場人物たちはすでに出会っており、物語はすでにあった。二人の出会いという単純な図式ではなく、すでにあるという人間関係の多様な絡まり、厚みの充満する人間関係の諸相がすでにあった物語である。そして、そのことが二人という閉じた時間に収まらず、二者の遭遇が、多数者との遭遇を誘発させることの必然性、つまり、多数者の、物語への不可避の侵入という、限定辞《しか》の変奏を読み取ることができる。

遭遇は西野との再会ばかりではない。西野の妻である清美との再会も遭遇だった。顕子が浮かぬ顔で土手を歩いていると清美と遭遇する。清美は、前夜、夫が女と会っていたのではないかと疑念を抱いているのだが、顕子との遭遇で、その相手が顕子ではないかと直感するのだ。清美は、西野と顕子が、高校生時代つき合っていたことを知っている。遭遇であることで、清美には帰郷を知らせていないことの意味、つまりは、顕子と西野との関係の復活を予感させるのである。

ところで、人間関係の諸相ということなのだが、何故、このような濃密な関係を必要としたのだろうか。三兄妹を取り巻く人間関係の諸相は様々な形で現れる。

義夫は兄・冨士夫の車を運転中、あやまって犬を轢き殺す。轢いた犬は、義夫の同級生で、学生時代、西野にいじめられていた畠中の愛犬のピートであることを知るのだが、畠中には「西野が犬を轢いたのを俺は見た」と嘘をつく。

先に述べた顕子のドロドロとした男関係なのだが、帰郷後、彼女は西野と閉校となった校舎での夜の密会を繰り返し、事を荒立たせる。このことが妻の清美との決定的な、そして顕子を解放へと向かわせる沙汰にもなる。そして、顕子の、芽の出ない小説家志望の夫・清一の突然の出現。

冨士夫においてはさらに複雑である。人格障害である弟・義夫を、経営コンサルタント会社の社長であると町民に嘘の紹介する富士夫。世間への体裁を気にする保守の冨士夫である。莫大な借金に破産寸前であるにもかかわらず、町の大規模開発に反対を訴える町民たちにも愛想笑いをしなければならず、さらには幼馴染の寺の坊主とその息子のタカシに呆れるほどの無防備さで騙される。これらすべてが、父から受け継いだ町工場を守ろうとする冨士夫の保守の姿勢の現れである。

糸が複雑に絡まり、修復不可能であるかのような事態。これは大都市ではない、地方の町という閉じた世界だからと簡単に言ってのけることもできる。だが、限定辞《しか》からの解放のためには、このような、うねるような人間関係の諸相が必要だからでもある。

解放の儀式は、父親の危篤、通夜、告別式という必然の流れを生み出す。

冒頭に述べたように、三兄妹は一堂に会したいわけではなかった。それと同じように、町民たちも一堂に会したくはなかっただろう。だが、通夜という装置は彼らの集合を要請する。西野も、妻の清美も、畠中も、寺の坊主も、そして町民たちも、通夜という儀式では一堂に会するしかない。この儀式で、人間関係の諸相は飽和点に達し、一気に解放へと向かい始める。

顕子の前で冷静を装いながらも、気持ちは通夜の場から逃れることしか考えていない西野。西野を呼び止める顕子だが、そこに清美が現れ諍いを引き起こす。

犬を轢き殺したのは西野ではなく自分であり、畠中をいじめていたのも自分であると畠中に告白する義夫。それは全て兄妹のトラウマとなっている鹿のせいだと弁明するのだが、「いい加減、鹿のせいにするのはやめろ」と畠中に叱責される。

そして、三兄妹の滑稽なほどの熾烈な諍い。彼らの諍いには自己しかなく、その自己とは、全てが他者への弁明の表出によって自己たりうる危ういものに過ぎない。その危うさを、まるで分断されたかのようなカットバックが補強する。このシーンのためにカットバックという手法を温存していたのだと、映画を見る者は直ちに理解する。カットバックは冒頭における彼らの食事シーンでの諍いで、一度使われている。しかし、通夜客の面前で繰り広げられる諍いは、世間体を気にする保守である冨士夫にとり、家族の内実の外部への恥ずべき露出という意味で、カットバックにふさわしいシーンと言える。

解放への道は加速を増す。義夫と顕子が通夜の場を去ると、町の老人たちは冨士夫を慰めようとする。だが、変化を好まぬ自己保守でしかない老人たちに向かい、「お前らの尻拭い」はうんざりだとばかりに冨士夫は喚き散らす。このとき冨士夫は、ようやく過去に留まることをやめ、未来への時制を獲得するのである。その夜、顕子は、西野と会うために校舎に向かう。そこには西野はおらず清美の姿が。清美は刃物を顕子に向け刃傷沙汰になる。この事件により、顕子も西野という過去との決別を決意するのだ。同じ夜、義夫は鹿を発見し追いかける。だが、かつて三兄妹が見失ったのと同じ山腹で鹿を見失う。そこからは町が一望できる。そのとき停電が起き、町の灯りが一斉に消える。それは町が浄化されたかのような闇の出現でもある。

(プロダクションノートから)

夜が明け、義夫は畠中の家の玄関に佇み、畠中の奥さんに「大変申し訳ありませんでした」と謝罪する。冨士夫は父の棺の窓を開け、「ごめん、工場を守れなかったよ」と詫びる。そして、顕子は実家を立ち去ろうとする夫の清一に「ごめんなさい」と離婚を詫びる。このとき、顕子を追いかけてきた清一を追い返すことなく実家に招き入れたのか、このとき、はじめてわたしたち観客は了解する。清一は顕子の離婚の決意が揺るがないことを理解し、仕方なく離婚届に署名する。だが、うっかりお茶をこぼし、離婚届を濡らしてしまう。清一は用紙を乾かすためドライヤーをかけ、そのことが原因で停電を引き起こす。町の灯りが一斉に消えたのはそのことによるのかもしれない。それは町が浄化されるような出来事であったのだが、そのために、清一の存在が必要だったのだ。そして、顕子に「ごめんなさい」と言わせるためにも清一はいなくてはならないのである。謝罪とは、三兄妹の過去との切断の表明である。

告別式が終わり、三兄妹は先祖の墓前にいる。そのとき、墓前の裏側の山の傾斜地に一頭の鹿を目にする。そして鹿は姿を消す。これまで、幾度となく鹿の影あるいは幻影のようなものがフレームを横切ったのだが、過去という「時間」と現在という「空間」のメタ境界にそれらは現れる、と映画は述べているかのようだ。

トラウマとは、三兄妹の、過去へと向かわざるをえない限定辞《しか》の一つの現れ・現象のことである。これら儀式により、限定辞《しか》は、《シカ》の消滅とともに、彼らが背負ってきた共同体の中から消滅したと言える。もっとも生物界は否定的な人間のことなど意に介すことなく、それぞれの個体として生と消滅の往還を繰り返すのだが、三兄妹のトラウマからの解放には、《シカ》のとりあえずの消滅で十分だろう。

そして、終わりの最終儀式は次のショットである。
冨士夫が工場の扉を閉める工場の内部から撮られたショット。フレームの暗転という冒頭との対義ショットである。冨士夫は工場の用地売却を決意したのだ。扉の前の冨士夫と西野。工場の鍵をタバコと交換に西野に渡す。タバコと鍵との交換。これは互酬性という共同体における交換でも、再配分という国家における交換でも、市場という経済における交換でもない。冨士夫の時間の集積と保守の象徴でもある鍵と煙として消滅するタバコの交換、これは交換の不可能性を表現した白眉となるシーンと思えた。

顕子は列車で東京に戻り、義夫は精神保健センターのパンフレットを手にバスに乗り込む。冨士夫は町境を車で超える。町境に設置されたリョウモウシカの看板が撤去されようとしている。カメラは冨士夫の車を追うことなく、フレームは溶暗する。それは、時間が冒頭の郷土資料館の閉館後の闇へと回収されたかのようでもあった。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

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