【翻訳】いとわしい結論について何を同意すべきなのか(Zuber et al. 2021)
以下の文章は、Zuber et al.. (2021). What Should We Agree on about the Repugnant Conclusion?の本文全訳である。ニッチな文献だが、「いとわしい結論(the Repugnant Conclusion)」と呼ばれる、人口倫理学(population ethics)における最重要課題の一つについて、29名の哲学者が共著者となって出した論文である。この分野で有名なJ. Broomeや、効果的利他主義・長期主義で有名なW. MacAskillなどが共著者に入っている。
タイトルの通り、この論文ではいとわしい結論について同意すべきことが述べられている。
Zuber, S., et al.. (2021). What Should We Agree on about the Repugnant Conclusion?. Utilitas, 33(4), 379-383.
いとわしい結論についてネット上で入手できる簡単な日本語文献は残念ながら少ない。古典はパーフィット[森村進訳]『理由と人格』の第4部であるが、読みにくいし長い。マッカスキル[千葉敏生訳]『見えない未来を変える「いま」:〈長期主義〉倫理学のフレームワーク』の第8章は読みやすい(私はこの論文をマッカスキルの本の第8章注27で知った)。
数理的な話は以下のブログ記事がとても参考になる。根気強く読めば、いとわしい結論(ブログ記事中では「嫌な結論」)がいかに厄介な問題なのかについて理解できるだろう。
以下のParfitの引用の翻訳にあたって訳書にあたってない。訳抜け・誤訳等あったら教えて欲しい。
なお、この文献はCC-BY 4.0で公開されいる。本翻訳もCC-BY 4.0ライセンスにて公開する。http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/
以下から本文の翻訳である。
いとわしい結論(The Repugnant Conclusion)は、人口倫理学へのいくつかのアプローチから導かれる含意である。デレク・パーフィットによる最初の定式化では、それは次のように述べられている。
*訳注:「生きるに値する生」という用語にぎょっとするかもしれないが、これはこの分野で頻繁に使われる専門用語であり、文献によって様々な定義・特徴づけがなされる。ただし以下で議論されるように、結局、この用語によって意味していることや、これについて我々がもつ直観がよくわからない、というのが、いとわしい結論をめぐる議論によって明らかになってきたことの一つである。
この結論は、文献(Ng 1989; Arrhenius 2000, forthcoming)において、両立不可能性に関するいくつかの形式的な証明の対象となってきたものであり、人口倫理学における永続的な焦点となってきた。
いとわしい結論は、人口倫理学研究の先駆的な段階を刺激し、触発するという重要な役割を果たしてきた。しかし、我々は現在、いとわしい結論にあまりにも多くの焦点が当てられていると考えている。いとわしい結論を回避することは、既存の文献の基本的な成果にとって重要ではあるものの、もはや人口倫理学研究を推進する中心的な目標となるべきではない。
1. 我々が同意すること
我々は、以下の点に同意する。
人口倫理学へのあるアプローチ(価値論(axiology)または社会順序(social ordering))がいとわしい結論を伴うという事実は、そのアプローチが不適切であると結論付けるのに十分ではない。同様に、いとわしい結論を回避することは、最小限適切な候補となる価値論、社会順序、または人口倫理学へのアプローチのための必要条件ではない。
いとわしい結論が、妥当と思われる多くの価値論および社会厚生の原則によって含意されるという事実は、倫理学および価値理論(value theory)の存在または一貫性を疑う理由にはならない(ただし、道徳的懐疑主義の他の理由が存在する可能性を排除するものではない)。
(いとわしい結論を回避すること以外にも)価値論または社会順序のさらなる性質は重要であり、重要視されるべきであり、決め手となる可能性がある。
我々が同意する[上記の]主張1、2、3において主張していないことを明確にする。
我々はここで、いとわしい結論、総量功利主義、それどころかいかなる特定のアプローチについても支持または反対するものではない。
我々は、ここでいかなる人口政策についても支持または反対するものではなく、持続可能性またはその他の結果に対する人口増加のいかなる経験的帰結についても主張するものではない。
いとわしい結論を回避することが必要ではないという我々の共通の主張は、いとわしい結論を回避することが、候補となる価値論、社会順序、または人口倫理学へのアプローチを評価する上で望ましいかどうかについて、立場を表明するものではない。
我々は、いとわしい結論が有意義であるか、明確に定義されているか、または生きるに値する生が明確に定義されているかについて、主張または否定するものではない(Broome 2004、および次のセクションの詳細を参照)。
2. 我々が同意する主張に至る代替経路の簡単な要約
我々は、第1節の同意の理由と含意について、意見が分かれている。この声明の残りの部分では、さまざまな筆者が、我々の共通の結論に達する代替の議論を要約する。以下については、我々は互いに意見が異なる。我々はそれぞれ、以下の議論の少なくとも1つを支持し、一部の議論を拒否する。
いとわしい結論がいとわしいという直観は、信頼できない可能性がある。いとわしい結論を拒否することは、我々の直観に決定的に依存している。これらの直観は、いくつかの理由で信頼できない可能性がある。(i) いとわしい結論は、非常に多くの人々を抱える事例に関する直観に決定的に依存している。このような非常に大きな数のサイズは、直観的なレベルで把握するのが難しい(Broome 2004; Huemer 2008; Gustafsson, forthcoming)。(ii) 我々は、想像する人口に自分自身を暗黙的に含めることを避けるのが難しいかもしれない。もしそうであれば、我々は質の高い生を送る人口を支持する利己的なバイアスを持っている可能性がある(Tännsjö 2002; Huemer 2008)。(iii) 我々はまた、少さな数を組み合わせるのが苦手である。そのため、小さくてもプラスの価値を持つ多くの生が、どのようにして非常に価値のあるものに積み重なるのかを見逃してしまう可能性がある(Huemer 2008)。(iv) 最後に、我々は「かろうじて生きるに値する(barely worth living)」生を、良いものではなく、悪いものと誤解している可能性がある(Huemer 2008)。または、文献における「かろうじて生きるに値する」生の標準的な例に惑わされている可能性がある:そのような例における生は、生きるに値しない、あるいは実際には生きるに値しないように見えるかもしれない(Hutchinson 2014);我々の生よりもそれほど悪くないかもしれない;あるいは、逆に、生きるに十分値するかもしれない。
人口倫理学における不可能性定理は、いとわしい結論を支持する強力な議論として解釈できる。もしそうであれば、多くの価値ある生の集合は、実際には、適度な数の非常に良い生[の集合]よりも優れている可能性がある(Tännsjö 2002, 2020; Adler 2008; Huemer 2008)。他の設定における社会的評価が、このように選択肢を比較検討することは珍しいことではない;例えば、同数の場合における集計の非直観的な結果についてはよく研究されている(Cowen 1996)。さらに、パーフィットによるいとわしい結論の最初の説明におけるいとわしさは、影響を受けないサブ集団(過去の人の集合など)に生が追加される追加ケースにも見られる。したがって、そのようないとわしさは、平均功利主義や、一般的にいとわしい結論を回避すると理解されている他の見解によっても伴われる(Anglin 1977; Budolfson and Spears 2018; Spears and Budolfson 2021)。
いとわしい結論を伴うアプローチは、実際にはいかなるいとわしい推奨事項も伴う必要はない。いとわしい結論は、潜在的な人口の規模に限界がないことを前提としている。いとわしい結論におけるはるかに大きな人口が、実際に存在する可能性は非現実的かもしれない。実際、いとわしい結論を含意するアプローチは、実現可能な(feasible)すべての意思決定の文脈、またはすべての関連する意思決定の文脈において、いとわしい結論を回避するアプローチと一致することが判明する可能性がある(Arrhenius et al. 2020)。さらに、我々があるアプローチを受け入れる理由は、特定の文脈におけるそのアプローチの含意を考慮することを伴う、反省的均衡の結果である可能性がある。この反省的均衡においては、実践的に関連するケースの帰結は、実現不可能なケースの原則よりも重要である可能性がある(Fleurbaey and Tungodden 2010)。例えば、分離可能性が妥当であるように見えるが、単純追加が実践的、限定的なケースでは妥当ではないように見える場合、(いとわしい結論に言及することなく)臨界レベルの一般化功利主義を主張することができる。
生きるに値する生に関する論理的に先行する概念が存在しない場合、いとわしい結論は明確に定義されていない可能性がある。いとわしい結論は、かろうじて生きるに値する生という概念を必然的に使用するが、少なくとも2つの理由から、この概念を使用することが正統ではない可能性がある。(i) 我々が「生きるに値する生」によって何を意味するのか、それが特定の文脈の外に存在するのかどうかが明確ではない可能性がある(Broome 1993, 2004)。(ii) さらに、追加の生が集団をより良いものにするかどうかは、完全な社会順序に依存すると主張する人もいるかもしれない。これらの理由のいずれかのために、我々は、いとわしい結論を評価できない可能性がある。もしそうであれば、いとわしい結論と、臨界レベルについての論理的に先行する価値に依存するいかなる原則も、アプローチを選択するための有用な指針とはならないだろう。
人格影響的(person-affecting)アプローチを受け入れる場合、大きな集団は、それぞれの人が異なる場合、少なくとも小さな集団と同じくらい良い(または許容可能である)可能性がある。かろうじて生きるに値する生が、大きな集団のそれぞれの人にとってアクセス可能な最良の生である場合、人格影響的アプローチは、小さな集団を選好する理由を見出せない可能性がある(Parfit 1984: 395; Roberts 2015)。もちろん、このような特定の大きな集団が、実践的に利用可能な選択肢になる可能性は低いが、いとわしい結論は「想像上の」ケースを必要とするだけである。したがって、そのような人格影響的アプローチでは、このように(そしておそらく他の方法で)いとわしい結論を伴うことは、不適切さを示すものではないだろう。
3. 結論
晩年、パーフィットは、いとわしい結論に関する彼の以前の議論を修正し、彼の以前の推論を「誤り」と呼んだ。その理由は、「我々は、その結論がもっともらしくないと主張するだけで、強力な議論を正当に拒否することはできない」というものである(Parfit 2017: 154)。パーフィットは、我々の主張1、2、3に決して同意しなかったかもしれないが、我々は、もっともらしくないように見える結論が真実である場合があるという点で彼に同意する。
倫理的議論は、公開討論、日々の意思決定、政策立案において広く使用されている。例えば、社会的不平等や差別に対する倫理的議論は一般的である(ただし、普遍的ではなく、常に成功するとは限らず、常に正しいとは限らない。)。多くの公的決定は、世界の将来の人口に影響を与える。したがって、人口倫理学は、これらの決定を適切に行うための不可欠な基盤である。それは単に学問的なものではなく、我々は、それを1つの考慮事項への過度の注意によって支配されるべきではない。おそらくいつか、価値論、社会厚生、または人口倫理学への正しいアプローチが専門家の間で合意されるだろう。もしそうであれば、使用されるアプローチがいとわしい結論を伴うかどうかはわからない。我々は、心を開いておくべきである。