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小説「ファミリイ」(♯41)
その年は春の番組改編期に担当番組が終了してしまい、新規の仕事も入ってこなかった。忙しく過ごした前年と違ってとても暇な一年が始まり、生活費に困った僕は展示会案内のアルバイトをして足りない収入を補填するようになった。
毎日朝からリクルートスーツを着てゆりかもめに乗車し東京ビッグサイトに通い、案内業務に従事。夜に自宅に帰ったら単発で入ってくる本業をこなす。そんな毎日が過ぎてゆく。
本業だけで食べていけなくなったことは悔しかったが、それまでのコンクリートに部分的に穴を開けただけのような都心の狭い1Kで誰とも会話せずただPCと向かい合う日々は、精神がおかしくなってしまいそうだった。ビッグサイトは近代的なコンベンションセンターであり、敷地面積も広く、海沿いにあり、潮風が延々と吹きつける。風は心地良く、その開放性とスーツを着用していることも相まって僕は、意外とフリーターの身の上を楽しんでいた。仕事に行けば必ず誰かと会話できるので、一週間誰とも会話しないこともままあったそれまでの生活とは打って変わった環境に〝働いている〟という確かな充実感を覚えた。
テレビ業界の喧騒から離れていると、気分は落ち着いたが、齢三十を過ぎてアルバイトをしていて良いのだろうかという迷いとともに、社会からはみ出したことによる寂寥と孤独は一層増してきた。
そのころ僕は、真夜中のランニングでは北へ、新橋方面へ向かうのではなく、自宅マンションから真っ直ぐ東へ横断歩道を二本越えて、首都高速が頭上を走る芝浦ジャンクションから南へ、海岸通りを天王洲アイルへと向かって走行していた。この辺りは倉庫街になっていて、バブル時代はクラブやディスコなどがあり大層賑わったようだが、二十年以上たった今は閑散としている。昔の名残を示すものは、通りを一本奥まったところに並走するオレンジにライトアップされた、東京湾の美しいウォーターフロントだ。
こんな都会の無機質な美観は地元ではまず見られない。僕は海岸通りから外れて、時折そのウォーターフロントを走ってみる。平地から一段低くなっているウォーターフロントからは、これもまた地元からは見られない、タワーマンションや企業のビルが両側に並び建つ〝トーキョー〟が見られた。タワーマンションにはポツポツと明かりが灯されていて儚く輝いている一方で、企業ビルはほぼ真っ暗。闇夜に現れた巨大な恐ろしい幽霊のように浮かんでいる。明るく自己主張するビルと闇に溶け込もうとするビルとのコントラストは不均衡だが美しく、激しく変化する時代に取り残され忘れられた土地が、せめてそこに住む者にだけは自分という印象を残したいと言っているかのように、朱色に煌めく。
渋谷や新宿の酔いが回るような醜穢な煌めきではなく、無機的で理路整然とした孤独な人を迎え入れる煌めきだ。
その論理的な煌めきは、優しいようでいて同じ孤独者として僕の孤独を抉り、不均衡な明るさは僕の心を投影しているかのようで、僕はこのウォーターフロントに砂漠を見た。
それまでの多忙から解放された分、僕の月々の支出は毎月の収入を上回り、貯金は目減りしていった。それでも僕はテレビの仕事を得ようと営業活動をするでもなく、のんべんだらりと日々過ごしていた。しかし翌年春には、とうとう貯金の底が見え始め、東京生活を続行するのが難しくなった。家族のもとへ、あの忌まわしき魑魅魍魎の棲む家へと、僕はまた戻らなければいけなくなってしまった。
しかし、どこかこれで良いような気もしていた。東京は、人間の視界を、当人も気づかないうちに砂埃で覆い、その目を曇らせる。清白な眼差しは、いつしか穢れ、眉間には常に皺が寄るようになる。汚泥のついた眼差しは他の、より穢れが少ない眼差しを持った人間を刺す。刺された人間は、四方を囲うオフィスビル群や商業スポットというグリルの上で焼かれる。その炎は特殊で、身体にはなんの火傷も残さないが、心の中にある純白の真球を灰にしてしまう。こうしてある種の人々は東京に食い殺される。
僕は、食われる前に逃げようと思った。東京は、この激しい競争と喧騒とがどんな場所でも行われているこの東京という町は、僕には全く合わない。二年間暮らしていけただけでも十分だ。もう逃げよう。それに、りょうまのことが気がかりだ。僕はこの二年間、ほとんど家には帰らなかった。帰るとしたら必要な物を取りに行く程度なもので、数分滞在するだけだ。最後に帰ったのは一年前に、アルバイトで使うことになるリクルートスーツを取りに帰ったときのこと。
そのとき、まだりょうまは生きていた。うちの両親のことだから、りょうまのことは、きっと亡くなったときにしか連絡を寄越さないはずだ。逆に、亡くなったら必ず連絡をしてくるだろう。ということは、まだりょうまは死んでいない。二年前のメールの件での憎しみは僕の中からもう消えていたが、許したわけでもない。許したわけでもないが、りょうまと一緒にいれるなら彼らとの生活も、恐ろしき兄との生活にも堪えられる。今回の帰郷は、前回のような数ヶ月では終わらず、年単位に及ぶかもしれない。ひょっとしたら僕は、りょうまの最期を看るかもしれない。否、この目で彼の最期を抱き、天使の羽根をつけて遥か大空へと、至上の極楽へと飛んでゆくさまを見守りたい。五年前の四月、ゴールデンウィークに突入する少し前に僕は、地元へと戻った。
24.現在(6)
二月の下旬。未曾有の感染症の一日あたりの新規感染者数は日に日に減っていった。東京の感染者数は、大晦日には一日二千七百人を記録したが、今日発表された数は、百七十八人。温かくなるにつれて劇的に減っている。この推移から見るに、やはりこの感染症は風邪の強化版といったところなのだろう。世界では急ピッチで開発・承認されたこの感染症向けのワクチンが流通し始めた。日本も他国に遅れて二月十七日に投与が始まった。とするとこの抑圧も、長くてもあと一年の辛抱ではないだろうか。世界の雪解けが見えつつある。
一年前に延期された五輪は開催されるだろうか? 僕は保守的な考え方の人間だが、英語をそれなりに読め、話せるのもあり、外国人が日本にたくさん来てくれることに賛成だし、多人種が同じ日本人として暮らせる国家になってほしいとすら思っている。それだけ僕は外国人に対して寛容なので、たくさんの観光客が来てくれるであろう五輪は、どうにかして開催してほしいと望んでいるのが、日本以外の国の感染者数の鈍化傾向は弱いので、おそらく開催は難しいだろう。万一開催できたとしてもきっと、海外からの客は入れず、無観客試合になる。インバウンドを期待する日本にとって大きな痛手であり、開催すれば借金が膨らむだけになるだろうが、今回のパンデミックが起こる前から我が国の衰退は取り返しのつかないところまできていた。今さら嘆いたり喚いたところで豚に念仏猫に経といったところだ。
今月中頃迄に僕の鬱気はピークに達していたが、先週くらいからぴたりと、何の前触れもなく止んだ。またどこかでぶり返すだろうが、いまの気分は安定している。三月末にやはり、いくつかの担当番組が終了することがわかった。仕事の依頼がなくなったのはそのためだった。僕が活力を取り戻せたのは、仕事が少なくなり、昨年よりも低年収になることを受け入れたからであろう。
とりあえず四月までの収入は月三十万円ほどは確保できているし、貯金も当面は困らないほどあるので、差し当たって問題はない。それにこれまでで一番家賃が安い家なので、月々の収入は支出以上にある。元来物欲がなく人間関係も希薄であり、映画や読書の時間さえできれば満足な自分は、そもそもお金をあまり使わないので、大金を稼ぐ必要がない。貯金も還付金が入れば二百二十万にはなる。田町に住んでいたころと比べてすべての仕事が終わってしまったわけでもない。それにいまは当時と違ってクラウドソーシングサイトが普及しているので、このまま依頼がなくても、また働きたくなったら何かネットでウェブライターの仕事でも見つければいい。映画を観たり、本を読んだり、この小説を執筆する時間が取れるようになったので暇も悪くない。
そう思えるようになったので僕は、ここ数週間は余暇時間を満喫している。上手くいかないときは、地団駄を踏むより、じっと動かないことだ。すべての人間は浮いては沈み、沈んではまた浮く、浮沈の繰り返しの中で生きていく。沈力は努力という名の抵抗では到底敵わないほど強く、浮力もまた人間が努力で到達できる地点より上にその人間を押し上げてくれる。人間の力ではどうすることもできないのだから、自分で腕や足を無駄に掻いて気力をすり減らさないほうがいい。なにもせずともいずれ状況は変わっていく。僕とネパール人の恋人の関係も、愛するHのことも……僕と家族との間も。
25.社会人6年目
りょうまは生きていた。僕が約一年ぶりに家に入ってきたとき、檻の中で仰臥していたりょうまは首を上げ、僕を最初、珍奇なものでも見つけたかのような少し間の抜けた表情で見てきた。僕がいない間にさらに体力が低下したのだろう、出て行ったときのように起き上がることはなく、ただ徐々に、もはや人をわずかに判別できる程度にまで視力の衰えたその大きな瞳が潤んでいった。入ってきたのが僕だと最初は気づかず、衰えているとは言え人間より鋭いその嗅覚で僕特有の臭いを感じ、僕を認識したのだろう。しかし、筋力は衰え、立ち上がることなく、二年ぶりに十畳間に荷物が搬入されていく様子をずっとりょうまは身体を丸めて寝たまま首を上げて見つめていた。
家は、傷みがさらに進行していた。建築当時の四十年前は真っ白であったろう外壁は長年月の砂埃が雨によって浸透し、黄土色となりコンクリートには何本かのうっすらとした消えない長い筋が、道路から見える二階の窓の右脇や下から、さらにその下部にある玄関の上にまで入っていた。その筋たちは亀裂へと進化しそうなほどで、亀裂が一度入れば、それは忽ち全方位に拡大し、このちっぽけな家屋を崩壊させてしまうのではないかと感じさせた。我が家は、家が面する通りで一番古くに建てられた家屋で、この家にはこの町の四十年超の歴史が詰まっている。
引っ越し業者より一寸早く着いた僕は、僕のわがままで両親の使用を許さなかった、荷物が運び込まれる前の十畳の部屋を見たところ、大部分は母によって片付けられていたが、小さな箱や置き場のなかったガラクタの類は部屋の隅に置かれており、大量の埃をかぶっていて、家の年季と合わせて、管理の入っていない納屋にいるような気を僕に催させた。引っ越し業者が速やかに帰ったあと僕は、家具を整理整頓するでもなく、すぐにりょうまの元に向かって檻を開けた。
りょうまは、「待ってました」と言わんばかりに、まるで数歳若返ったように立ち上がり、尻尾を振って僕に近づいてきた。老体は抱きしめられると苦しいようで、顔や身体をしゃがみ込んだ僕の腕に遠慮がちに、本当は全身を任せたいが節々の傷みを恐れてそれ以上近づけず、傷みを感じないギリギリの境界までやってきて優しく擦り付けてくる。顔からは牡犬らしい精悍さが失われ、その顔面やパピヨンの象徴である大きな耳を覆う毛はコシを失い、細く弱々しく垂れている。そしてりょうまは全身を僅かに絶え間なく震わしている。きっと、僕に近づく、身体を擦り付ける、見つめ合う……その行為に大きな体力を使ってしまうのだろう。僕は居た堪れなくなり、五分ほど遊んだらそそくさとりょうまを檻の中に返した。東京から戻る前、いの一番にりょうまを抱き上げて接吻を交わす光景を想像していたのだが、りょうまの老衰はそれを叶えてくれず、淡白なものとなった。
ベッドや本棚、衣装ケースなどを一通り、二年前、引っ越す前と同様に並べ終えたところで母親が帰ってきた。対面するのはほとんど一年振り。しかも一年前に対面したときは十数秒話した程度だったので、またいきなり二十四時間一緒にいるというのは奇妙なことだろう。母は僕に猜疑心を抱くような顔で、何を話したか覚えていないが、二、三言部屋の片付けについて会話を交わした。
「あと二、三ヶ月もすればまた出ていくよ」
と会話の流れで返したのを僕は覚えている。しかし、その可能性は低いことを、僕は口から出た言葉がまだ途切れないうちに、喉元が刃が刺さるように感じ取った。前回のように七ヶ月でも終わらない。しかし、これでおそらく実家にいるのは最後になるだろう。次に出ていくまでにどれだけかかるかわからないが、最後の地元生活がスタートを告げた。
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