欲望をすなおに受け入れると、エンタメはもっとおもしろくなる
まえに、こちらの小説を読むのを断念したことがある。
社会派ミステリー、ほどよいボリューム、京都が舞台。この三拍子がそろって読まないわけにはいかなかった。そうおもって手にとった。
しかし、序盤で読むのをやめてしまった。
つまらなかったわけではない。ただ、この小説を理解するには当時の僕にはまだ早かっただけなのかもしれない。いや、他のことで頭がいっぱいで小説に100%集中できていなかっただけなのかもしれない。
だからこの小説に罪はない。
その証拠に、
この映画化されたものを今日はじめて観てそのおもしろさの余韻のままこのnoteを書いている。
この記事で、映画の感想やあらすじを書くつもりはない。有名な作品だし、キャストもいいし、11月11日時点ではAmazonプライム会員のかたは無料で観られるのでぜひ確かめてみてほしい。
ちなみに僕は中盤から涙がずっととまらなかった。観てもきっと損はしない、はず。
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ところで、僕は以前にこの小説を読むのを断念してからこの映画を観るまでの約1年ほどのあいだに、「ある感情」がうまれていた。
それは、知りたい、という欲求だった。
子どものころからそういう気持ちはつよいほうだった。なにかを気になりはじめたら「なんで、なんで」とまわりの大人に聞いていた。でも、わからないことが溢れるこの煩雑な世界を解きほぐすというよりも、わからないままにしておくのが気持ち悪かっただけなので、答えを聞いても「ふーん。」とそっけない返事をしていたらしい。
我ながらなんて面倒くさい子どもだろう。
でも、いまは違う。
「グリコ・森永事件」についてどうしようもなく知りたくなったのだ。
きっかけは、NHKの『Nスペ 未解決事件』で放送されていたこの回を観たからだった。
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それで、ね。今日おもったことがある。
人生って、歳をかさねるごとにたのしくなる。
世の中のことを知れば知るほどエンタメっておもしろくなる。
僕は「グリコ・森永事件」が起こった当時はまだうまれていない。近所のスーパーからお菓子が消滅したこともキツネ目男のニュースも実際には知らない。
だけど、知ろうとおもえばこうやって情報はキャッチできる。知識が積み重なるから僕自身に意見がうまれる。多方面からたのしめる。
ただのエンタメではなく、「実際に過去に起きた事件でもある」と認識して観ることも読むこともできる。
要は、「受け取り側(消費者)の捉えかた」によるんだとおもう。
書かれた当時の背景とか、前後作とのつながりとか。それを想像できるのは読み手の知識や経験がないとやっぱりむずかしい。
と、いうことは。
これから、僕たちの読み書きはもっともっとおもしろくなる。知りたい、見たい、聞きたい、触りたい、こういった欲望は僕たちのエンタメを何倍にもたのしくさせてくれる。
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つづきはこちら。
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