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新しいものを、取り入れる姿勢で
さて、京都人について語りたい。
いまは“古都”などと呼ばれ、はんなりと雅なイメージがありつつ、歴史や文化都市で名高いのが、京都というまちである。
しかし、幕末から明治時代にかけて、京都にとっては天地をゆるがすほどの一大事が起こった。明治天皇の東京行幸(奠都)である。
京都の民衆、とくに商人にとっては、「天皇が京都にいはる」ことはなにものにも代えがたい特権だった。だから、京都人のなかには、“明治初期に天皇と東京に行かはった人や店”については良く思っていない方々がいまでもいるという、嘘かまことかわからないような話もある。
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一時は“狐狸のすみか”と言われるほど衰退した京都のまちが、どうやって活気を養ってきたのか。それを一言で言うならば、“先駆者になること”だった。
欧米に追いつけ追い越せで中心となったのはやはり首都・東京ではあるのだけれど。京都は、明治2年に全国初となる“学区制の小学校”を64校も開いている。その建設費や運営資金のほとんどは、町内の自治組織“番組”によって負担するなど、現在の上京区や下京区というまちの原型を窺い知れる。
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元龍池小学校の校舎にある
その後は、“舎密局”などによって、理化学産業が養成、発展した。
ほかにも、京都の日本初には、路面電車(いまの京都駅前から伏見・寺田屋あたりの間)、時代劇の撮影(牧野省三による『本能寺合戦』)、国家的土木事業(琵琶湖疏水工事)などがある。
僕は、これらのすべてが、京都人の“新しいもの好き”という性質によるものだと思っている。
◆◆◆
京都ほどのまちであれば、つい歴史的に価値があるものに頼りがちになりそうなものだが。たしかにそういう面も、ないことはない。むしろ、しきたりや伝統などを重視する気難しさでいえば、日本一だろう。
しかし、それだけではなく、京都には市民の声にも耳を傾ける“姿勢”があった。先例にとらわれない“柔軟な発想力”があった。そして、なによりも、新しいものをすすんで取り入れようとする“子ども心”があったからこそ、京都は、廃れずに腐らずにいまもこうして美しいままでいられるのだと思う。
日々の通勤の途中で、このポスターをいたるところで見かける。
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僕は、社会人になってから京都市以外の地域で生活をしたことがないため、ほかの自治体がどのような政策をしているのかは知らない。だから、わかったような口をきくのはおかしいのかもしれないけれど、
「なんか、京都、イカしてるやん。」
若々しくて、興味を惹かれるいいポスターだ。(たぶんデザインをしたのは市ではないのだろうが)、だれが市長に選ばれようとも、いまのままのやる気とセンスで、令和の京都の発展を心より願う。
当日は、彼女とふたりで投票に行く予定です。
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