映画トイストーリーはたぶん私の物語
先日、トイストーリー5の制作が発表された。
ディズニー映画の中でも特にトイストーリーが大好きなんだけど、3が最高傑作すぎて、4の結末にどうしてもモヤモヤしてしまった。
なのに、さらに5?!と驚いた。
まぁ批判とまではいかなくとも、なんとなーく、自分の中で4はなかったことになっていた。あまりにも3が綺麗な終わり方をしてたから。
アンディが大人になってボニーのもとへ渡り、その続編が描かれるとしたらボニーとの別れだって想像できたはずだったのに。
あまりにもトイストーリーに思い入れがあるもんだから、なぜこんなに惹かれるんだろうと考えてみた。トイストーリーについて本気出して考えてみた。幸せについて本気出して考えてみた。(←これは誰の曲だっけ?)
トイストーリーと私の歩み
トイストーリーはこれまで、全作を通して"おもちゃ"と"持ち主"の結びつきや関係性を描いてきた。
私がこどもからおとなになるまで、順を追ってトイストーリーとのエピソードを思い出してみる。
初代トイストーリー
トイストーリーの第1作目が日本で公開されたのは、1996年。そのとき私は8歳だったから、シンプルにアンディに近い目線で観ていた。
もしかしたら、自分のおもちゃも夜こっそり動いているのかもしれない…!というワクワクした感想すら抱いてた気がする。
そして、今まで観ていたアニメの常識を覆されるリアルな映像に釘付けだった。そういう意味でも、トイストーリーを観た時の衝撃はかなり強かった。
セル画にはない立体感があって、まるで本物みたいで。何かを考えさせられるような年頃でもなかったので、ただただ "おもちゃも実は心があって見てないところで動いている"という夢のある設定と、キャラクターの可愛さと、見たことのないリアルな映像に一瞬で虜になった。
トイストーリーは、ピクサーの第1作目。つまり世界初の長編CGアニメーションがトイストーリーということになるんだから、世間に衝撃を与えただろうし、印象に残るのも当然だ。
トイストーリー2
そして第2作目は2000年。私は12歳。
トイストーリー2は、ジェシーやブルズアイ、プロスペクターとの出会いがある。
ジェシーはかつての持ち主であるエミリーにとっても大切にされていたけど、その子が成長するにつれておもちゃよりもお化粧や流行りのものに興味が移り変わり、忘れられ、最後は捨てられてしまうという悲しい過去がある。
正直なところ当時の心境を鮮明に思い出せるわけではないが、2のラストは、ジェシーの新しい持ち主がアンディになって、おもちゃの仲間が増えてよかった!と、こどもの自分にとってもハッピーエンドだった。
あとは、空港のスーツケースが流れるベルトコンベアのシーンが印象的すぎて、大人になった今でも、空港で荷物を預けるたびに「あのピラピラしたところの奥はあのトイストーリー2の世界が繰り広げられてるのか…」と想像してしまう。本当、いまだに。
トイストーリー3
そして3作目は、しばらく開いて2010年。
私は22歳。一気に大人だ。
そしてアンディも大人になった。(設定上は大学へ進学する歳)
もうお気付きだろうか。
トイストーリーは私の物語でもあるのだ。…まぁまぁ、引かずに聞いてくれや。
ここまで続編が次々と生み出されるトイストーリーをリアルタイムに観る年代で、同じ目線で感じられるのは私ら世代しかいない。
大人になってから久しぶりに観るトイストーリーは、今まで気付いてなかったおもちゃたちの心情やピクサーが伝えたかったこと、そして単純におもちゃにも心があって動くことができるという夢がある映画、だけではないことに気付く。
それもそのはず。だって・・・見てこれ。
前作からかなり時間があいたのは、こんな理由もあってこそだったのだ。
信じられるかい??
私らが、大人になるまで待ってくれてたんだよピクサーは。
アンディと共に成長して、同じテーマに直面するその時まで。ターゲットの時間軸をちゃんと考えて、温めて温めて、制作発表してくれたなんて、あーもうピクサーを抱きしめたいよ!(概念)
トイストーリー3からは、初めて観た時の記憶がハッキリとある。
映画はTSUTAYAのレンタルか金曜ロードショーまで待つ派の私が、めずらしく映画館まで観に行った数少ない作品のうちのひとつが、トイストーリー3。
当時付き合っていた彼氏と観に行って、スペイン語モードになったバズに爆笑したと思えば、ラストの焼却炉のシーンでもう信じられないくらい号泣したのを覚えている。
その彼氏ってのが、のちの旦那ですうふふ…と言いたいところだけど別人です。なら言うな
とにかく、トイストーリー3は今までで一番好きな作品になり、表題通りウッディたちの"おもちゃとしての人生"の一部始終を見届けることができたと思っていた。
そしてまた時は流れ…
トイストーリー4
第4作目が発表された、2019年。
私は31歳。結婚して、3歳の息子がいた。
息子も私の英才教育によりトイストーリー1〜3まで何十回も観て、順調に大好きになっていた。しめしめ。
そして、トイストーリー4で映画館デビュー。まさか自分がこどもの頃から観ていた作品の続編を、こうやって我が子と映画館で観れる日がくるなんて思っていなかった。
でも正直、私は3で完全に終わったと思っていたから観る前から複雑な気持ちだった。
もうこの際、
"大人になって結婚したアンディが、もう遊ばなくなったボニーからウッディたちを再度引き取り、アンディと、アンディのこどもとの物語が再び動き出す!"
なんて展開を期待していた。またアンディに遊んでもらえて喜ぶウッディの姿で涙したいわ〜、なんて。
甘かった。
まさかあんな結末になろうとは、違う意味で涙した。
こどもの頃から共感し続けていた私とトイストーリーの物語も、悲しかなここで終わってしまった感じがした。
でも最近、5の制作が発表されて、かなり久しぶりに4を見返してみて改めて思ったことがある。
そんなに拒絶する内容ではない。
そして、4の結末は必要だったのかもしれない。
やっぱりトイストーリーは私の物語でもありますわ!!!と。(マイストーリー説再び)
親となった今、こどもといっしょにトイストーリーを観ると、アンディの姿を息子と重ねてしまうところがある。
かつてこどもだった自分がいつのまにか親目線になり、トイストーリーが長年に渡って描いてきたメッセージというのを感じ取れるようになっていた。
息子の相棒は、0歳の頃から一緒にいるトトロのお手玉サイズのぬいぐるみ。大中小と全員揃っているが、一番のお気に入りは中トトロ(うちでは青いトトロ、と呼んでいる)。
他のおもちゃでも遊ぶけど、どこかお出かけの時に連れて行くとなったら決まって選抜される、青いトトロ。
まるでアンディにとってのウッディみたいに、特別でお気に入りのまさに相棒のような存在だ。
プラレールトーマスの上に乗っけて走らせてみたり、
恐竜のぬいぐるみと戦わせてみたり、
ベッドに連れ込んで一緒に寝たり、、
そんな姿を見るたびにトイストーリーみたいだなと微笑ましく感じていた。
だから、何度も観てきたはずのトイストーリー3の冒頭シーンをこどもと一緒に観た時、信じられないくらいダバダバに涙を流して泣いてしまった。
お母さんが撮影するホームビデオのモニター越しに、おもちゃで遊ぶアンディの姿が次々と映し出されるシーンだ。
アンディが遊んでたおもちゃをまだ幼き妹がヨチヨチ歩きでわーっと壊しちゃって、「あっダメよモリー!」とお母さんが言うと、
「ううん、いいんだママ。えーっと、大きな怪獣が襲撃にきたぞーっ!(要約)」と、こどもならではの発想の転換で遊び続けるシーンは、アンディの優しさとおもちゃとの向き合い方を感じて胸が熱くなる。
ポップコーンを食べながら部屋で怖いテレビを見る時も一緒。公園に行くにも一緒。ウッディと公園で手を繋いでくるくる回り、「時が流れても〜♪変わらないもの〜…」と、いう歌詞のところでそのホームビデオ風のカットはストップし、次の瞬間、大人になったアンディに遊んでもらおう大作戦のシーンに移る。
…時が流れても変わらないものは、おもちゃだけだった…
もうここで私は息子と重ねてしまい、くっ…(目頭を抑える)
からの、ラスト、"アンディが最後にボニーと一緒におもちゃたちと遊んで、別れを告げるシーン"でもう、アウトーーー
その直前に、お母さんが家を出ていくアンディに「ずっと一緒にいられたらいいのに。」って涙ぐみながら抱きしめるシーンも相まってさ…
いつか、こどもはおもちゃで遊ばなくなる日はやってくる。親離れする日もくる。それはもう絶対。その未来を見たようで、さみしい気持ちになった。自分だって、たくさんのおもちゃを手放してきたはずなのに。親から離れて自立したはずなのに。
トイストーリーに出てくるキャラクターはみんな、持ち主に捨てられることを異常に怖がる。
誕生日が来るたびに、プレゼントでやってきた新入りに座を奪われないかヒヤヒヤ。
ヤードセールの日には自分が売られてしまわないかヒヤヒヤ。
プロスペクターやロッツォは特に憎悪感が溢れてしまうくらい、ひねくれちゃってる。それくらい、おもちゃは持ち主に遊んでもらってこそおもちゃでいられる、と思い込んでいるのか。
ここでやっと4の話になるけど、(前置き長いて)
そんな、持ち主はおもちゃを手放すことはあっても、おもちゃが持ち主から卒業するなんてことはありえない、という固定観念を覆されたストーリーだった。
私は4ではウッディはボニーの一番じゃないことがちょっとさみしいなと思っていた。ボニーはアンディじゃないから、ウッディは相棒ではないし、クローゼットに置いたまま忘れちゃう。ゴミ箱に落ちても気づかない。
いつだって選ばれていて、アンディにとっての一番だと自信満々だったウッディが居た堪れなくて。
でも、だからこそ、"自分はゴミだ"というフォーキーに、ボニーにとって大切で必要なのはフォーキーなんだと何度も説得することができたのかなって。
フォーキーをボニーのもとに返す指名を果たしたら、ウッディは初めて自分の人生…持ち主のいない生き方を選んでみようと思えたのもなんだか納得できた。
実際、ボーピープはおもちゃの役割を全うしない自由な生き方を選んでいた。
今の時代によくいわれている多様性についてのメッセージもあるように思える。
例え、あんなに「俺たちは一緒にいることに意味がある」と見捨てなかったバズたちと別々になってしまったとしても。
いつまでも現役ではいられない。
こどもはおもちゃをなくす生き物だ。
おでかけ先に忘れてきたり、いつのまにかどこかに置いてきてしまったり。
突然持ち主が消えたおもちゃたちは、ロッツォのようなひねくれた生き方になるんじゃなくて、ウッディのような選択があっても、これはこれで夢があるのかもしれない。
それに、トイストーリーに出てくる悪役おもちゃはみんなこらしめられるのではなく、意図しない新しい生き方を進んでいる。
ザーグは、偽バズ(?!)と親子になり、
プロスペクターはアーティスティックな落書きをする新しい持ち主のリュックに入れられておもしろいことになりそうだし、
ロッツォはゴミ収集車のトラックのおじさんに懐かしがられ気に入られて、ゴミ収集車の相棒になりそうだし。
4でウッディが選んだ道を肯定してあげることができたら、5はどんな新しいストーリーが待っているのか少し楽しみになった。
何歳になっても、トイストーリーを追い続け、メッセージを受け取り続けていきたい。
私にとってこんな映画は、きっと他にないから。
そして
例えカミナリを落としたくなるほど散らかしていても、おもちゃで遊ぶ息子の姿をしっかり目に焼き付けておきたい。
もしかしたら思っている以上に、おもちゃに夢中になって遊ぶその真剣な眼差しや笑顔を見られる期間は短いかもしれない。
これからは息子とおもちゃの物語を見守る番だ。
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