わたしを幸せにできるのは自分を信じたわたしだけ。
私たちは
いつから
自分の可能性を
過去を根拠に
推し量るようになったんだろう。
赤ちゃんの頃は
今まで歩けたことない私に
歩くなんて無理な気がする…
とか思わなかった。
子どもの頃は
出来ないことが山ほどあって、
勿論、
過去に出来た試しなんてなくて、
だけど
だからといって、
自分はそれができない人間だ
なんて、考えもしなかった。
歌手になりたい!
アナウンサーになりたい!
純粋にそんな気持ちが持てた。
現状がどうかも含め、
自分の後ろ側にあるものに
自分の未来を委ねてなかった。
でもいつからか、
自分がそれを出来る見込みがあるかどうか
実現の可能性があるかどうかを
"現実的"に、判断するようになった。
どうしたい、
どうなりたい、
という気持ちよりも、
これまでの自分がどうだったか、
その結果今の自分がどうであるか、
身の周りでそれが出来たという実例があるか、
一般的に見た難易度、実現可能性はどうか、
といった、
自分をとりまく"現実"や、
"常識"や"一般論"
が自分にとっての根拠となり
真実になった。
やるかやらないか
やる意味があるかないか
妥当か無謀かを、
"自分が信じてしまったもの"
で、判断するようになった。
そのうち、
こうしたい、
こうなりたい、
という気持ちすら、
よくわらなくなった。
(無理だって分かってるんだけど)
(現実的に難しいと思うけど)
(私には分不相応だけど)
そんな前置き無しには、
純粋な夢みたいなものが
出てこなくなった。
他でもない私自身が、
そういう変貌を遂げてきた。
私は小学生の頃、
自分みたいな子どもが
大人になったら
どんなに凄いことになるんだろう…!
大人になった自分を見るのが楽しみだ✨
って本気で思ってた。
そう思った瞬間のあのシーンは
今でも覚えてる。
何でもないある日の休み時間にひとり、
職員室の前あたりの廊下、
校庭と空を仰ぎ見られるあの場所で、
晴れた陽の光を感じながら
ふと、そんなことを思ったんだ。
自分より勉強ができる子だっていたし、
自分よりかわいい子だっていた。
自分が誰かと比べて劣っていると
感じるシーンも山ほどあった。
それでも
そんなことに挫かれることなく
自分が自分に期待してた。
自分の価値を
自分のポテンシャルを
自分が一番感じてた。
それが、
中学、高校、大学と
ライフステージが上がるにつれ、
どんどん期待とは裏腹な自分になっていって、
気付けば、
自分が自分自身に抱くセルフイメージが
散々なものに変わってた。
自分への期待は木っ端微塵になってた。
だけど、
砕かれて散ったその片鱗が、
ことあるごとに、
私を導いてくれたし、
ここぞという場面で、
私を支えてくれた。
もう後が無い背水の陣では
いつも、奇跡を見せてくれた。
あの日、
小学生だった私が
自分に抱いた自分への信頼は、
今も鮮明に私の潜在意識に焼き付いていて
裏切り行為のデータで埋もれてしまいそうな
今もなお、
なんとか上塗りされまいとして
私に向かって叫んでる。
あんたはそんなもんじゃない!
って。
あんたが本当に望むことなら
何だって成せる!って。
あんたにとっての真実は、
あの日のあんたが実感してたことなんだよ!!
おらぁぁぁぁー!!!!
って。
私に訴え続けてくる。
私は、私に愛されてた。
私は、私が好きでたまらないんだ。
だから、
私に、できた!を見せたい。
期待に応えたくてしゃーないんだ。
私ならどんなことが成せるだろう✨
っていうワクワクの結果を
現実として、味わわせてあげたい。
本当に望むことを
一緒に見つけて
それを全力で叶えたい。
だから私は
自分を信じる。
私を幸せにできるのは
自分を信じた私だけだから。