過保護と放置のあいだ
はろー、マリエです。
ありのままをぶっ放す
コミュニケーションサポーターやってます。
適切な放置は愛
『放置』ってことばは誤解を生みそうなんだけど、適切に『待つ』・『本人に任せる』って子ども(人)と接するうえでたいへん大事と思います。
自分の大切な人を守りたいという気持ちや、力になりたいという気持ちはわかるんだけど、それは一歩間違うと独りよがりの自己満になりかねない(もちろんそんなつもりは毛頭ないけどね
待つ=信頼すること
子どもとの接し方について相談を受ける際、わたしはみなさん『愛たっぷりだなぁ』と思う。が、愛たっぷりゆえに、『心配』や『願望』が勝るシーンが起きる。
子どもの将来を憂うがあまり、もっと◯◯してほしい、なかなかいうことを聞いてくれない、と愛が爆発し、いつしか『子どもに思い通り動いてほしい』と無自覚に相手をコントロールしようとしちゃってたりする。(ぴえん
これは大前提として『子どもを信頼してない』ことの現れではないかと思う。そして、その根幹は『自分を信頼してないこと』につながってると思う。
ただ単に放置することは虐待
『放置』ということばを使ってるけど、もちろん単に放し飼いするというニュアンスではない。それはネグレクト、虐待の一種ですのでお気をつけくださいませ。
『信じて任せる』というのは、
・自分で決める練習をする
・自分で決めた結果を自分で受け止める
であり、まわりの人間にできるのは
・選択肢の提示
・失敗したときのフォロー
くらいではないだろうか。
正解を教えるとか、何かを与えるとか、そこは重要じゃないと思う。本人が何を選んでも自業自得、ただしどんな道を選んでもそこには学びがあり糧になる。この意思決定をするサポートくらいしか、親(まわりの大人)にできることはない。
子どもは他人であることを忘れない
自分にとって何よりも大切な存在、自分の延長や一部と思えるくらい尊い存在、なのはわかるけど、子どもは自分ではない。
だからこそ、人としてのリスペクトや距離感は親子であろうが必要。他人だからこそ、自分と違う考えを持つし、本人の人生を親が指図することはできない。本人の生きる力を尊重し、本人の選択を信じるしかない。
なかなか子どものありのままを信じられない人は、『自分を信じる力』が足りてないかも。まずは自分を信じる力をつけましょう。
今回は『放置』ということばを使ったけど、それは叱らないとか規律がないとかそういう意味ではない。(なんでも自由にやらせるって意味ではないよ)
以前書いた『怒る』についての考察記事はこちら
わが家はだい〜ぶ自由なスタイルの家ですので、参考になるかはわかりませんが書いてみました。お読みくださった方がいらっしゃいましたらありがとうございました♡