ゆとり
肉体的にはまだまだでも、味方だと安心して信頼できる人が増えた。それが見え、認識できるゆとりが生まれた。今だから思う。
命が危険だと感じるほどの極度の体調不良の時や、そのような身体的危機でも治療が滞ってしまい以前経験した死線が間近に迫っているのを阻止する術無く感じる時は辛い。さらには、それを防ごうと一緒に闘ってくれる味方がいない・乏しいように感じる時、治療のために奮闘する中で寿命を削ってその方法を捻出しなければいけない時には、私は心の視野狭窄を起こしてしまう。
要するに、如何に生存を勝ち取るか、その一点に全力で集中する。
そして、それ以外が見えなく・感じなくなってしまう。
肉体的苦痛はまだ我慢すればそれで済む。見放されて、なす術もなく、誰が味方かすら分からなかった時は辛かった。
ゆとりを無くすと、苦しみから思考が抜けづらく、生産性が上がる他のことに集中しづらい。
趣味にしても、多少のゆとりがないと、なかなか平静で、穏やかに、そして楽しみの余波に浸るのが難しく感じる。一瞬一瞬は楽しめても、ドーパミンが放出されるその瞬間が過ぎた後、思考が苦痛やそれを阻止したいと願う、生存本能に吸い込まれるかのようにもがく。
少なくとも、周囲の人々が自分を生かし、体調改善に集中してくれると信じることができるというのも、大いに大切だ。(今までも、人々はそうだとしても、その温かさを純粋に受け入れ、喜ぶためには「追い詰められて、逃げ場がなく、戦闘モードで道を切り開くのも困難に感じる窮地」に感じないゆとりが大切に思う。)
制度や人が治療や闘病を打ち切ってしまうかもしれない力と感じるか、自分を応援してくれているように感じるのとでは、やはり心のゆとりが変わる。
このゆとりが有るか否かで、心持ちも変わる。人間「fight or flight、九死に一生を得るべくして闘うしかない」ような状況に追い込まれている時と、そうでない時とで、周囲との接し方も変わるだろう。
辛い時には、それが滲み出てしまう。それが、短気やイライラに繋がる人も少なくないだろう。私もきっと、ある程度そういうところもあるかもしれない。
それは、ある意味個人レベルで意識を変えることで改善できる姿勢でもあり、生物としての本能というよほどの修行をしてもなかなか超えられない生物としての機能でもある。
最近、色々と痛感している。
病状によって肉体的辛さがある時、自陣が対峙すべき相手が病気のみなのと、制度や人までと前線が二分、三分んされてアップアップでキャパオーバーで苦しくて、辛くて、どうしようもないけど、助けを求めてもどうにもならない絶望の中で必死に何か気分を上げるための希望の光を自ら生み出し、必死にその幻想と心の中の切れかかった命綱に必死にしがみつこうともがき苦しむ状況がどんなに厳しい状況かを認識する。
同じ体調であっても、唯一の命綱が切れそうで、いつ手放されるか分からない心情(あるいは、目を見て「死ぬね。でも無理。」と科学的に可能で効果が立証されている治療を拒否されて引導を渡される時。もっとキツイ存在は、「人工呼吸器装着するのが何か?」と、止血すらできずにその場でクルクル立ったまま回り始める白衣を纏ったエリート意識の高い頭お花畑。予期せぬ出血時、患者が応急止血を自ら行い、その後の指示も患者が医師と呼ばれるオロオロしたダンサーに出さないと動けない輩が知ったかぶって、平気で嘘や無知を鼻にかけて胸を張る、絶望感。こういうのを何度も経験すると、せっかくの優しい味方でも、優しさに意図があるのかと疑心暗鬼に蝕まれることもある。そして、優しさが引導を渡される前の、嵐の前の静けさならぬ、死期の前の温かさなのかと、色々恐怖やトラウマが妄想の主導権を握る瞬間が生まれる。自分の思考は自分でコントロールするべき…… けれども、これがまた難しい。同時に、優しいその行動や表情、仕草からは裏がなさそうだとも思う。それ故、相手が味方かとも考え、自らが傷つかないように相手が味方の顔をした寝首をかくタイミングを伺う敵の可能性も脳裏を横切る。善悪のシナリオが脳内で蠢く。一方で、楽しい瞬間は心から笑える。生物は不思議だ。人間は脆くて強い。)
それは、今は希望となるか、それすら途絶されるか分からない中でも、「分からない」という希望があり得る可能性にしがみついて、一寸先の闇か延命か分からない近未来を意識から除外して、敢えて無視することを選択することによって、正気を保ち、勝機を伺っている。
このような、中でも今この瞬間は肉体的にも精神的にも四六時中苦しいだけで、一瞬たりとも楽しんだり、何かに没頭できないほど悲惨な状況ではない。
絶望感を直視し、それでも自身をコントロールし、敢えて幸福に焦点を当て、笑ったり、生産性のあることをできる時間が増えた。
そして、様々なことを楽しむ中で、その行動の余韻にまで浸れる。そして、必死にどうにか楽しもうとせずとも、自然体でリラックスして、自然に何かに取り組める。
今この瞬間は少し「ゆとり」が出てきたのだろう。未来が絶望と苦しみしか待ち構えていない、非道で卑劣で屈服しか許さない苦痛しかないように感じずにいられる。
楽しむだけではなく、安堵までできる。
貴重な時間。
こういう時に、幸せの貯金をしておきたい。
今を大切に生きよう!