患者から医師になるまでの道のり

私が子供の頃は、夏でも冬でも外で元気いっぱいに走り回る、風邪一つひかない子供でした。

子供の頃にアメリカから日本に移住して以来、子供の頃から将来はアメリカに帰ると確信し、帰国を夢見続けていた。その間も様々な地に移住しながら、元気いっぱいにスポーツをこよなく愛する青年に近い女性として成長していった。

しかし、東京に引っ越して約1年が経過したある日、突然朝頭痛がするようになった。10代のちょうど思春期と言われる年齢。市販薬のタイラノール(アセトアミノフェン)では効かない、寝起きに割れるような頭痛と嘔吐があった。その後は、頭痛も軽減して再び元気に登校した。きっと、偏頭痛だろうと思い、効く頭痛薬をもらうために受診したら、入院治療することになった。

抗がん剤治療を完遂して、元気に楽しい毎日を送っていたある日、いつもの大学病院で眼科の受診中に左手中指が妙な動きをしているのに気がついた。私は幼い時に、誤解からヒートアップした喧嘩の中である言葉が使われた。その瞬間、相手の拳が振り下ろされたのを目撃して以来、F*CKという言葉は絶対に口にしないと私は心に誓った。事実、生涯で一度もこの禁句を使ったことはなかった。皮肉にも、左手の中指が不随意に(自分の意思とは関係なく)曲がるのだ。ジョークかのように、笑ったのをよく覚えている。実は、それは新たな病気の発病の初症状だったのだ。その病気は典型例が100万人に1人、私が発症したのは当時病名もついていなかった珍しい劇症型(亜型)だった。後に知ったが、当時かそれ以前の文献には、「治療によって一度は改善がみられたものの、再度悪化して亡くなった」という症例発表ばかりが出版されていた。2020年に初めて出版された私の病気の専門書には、小児発症の私の病気は典型例と亜型(珍しい非典型例)を含めて世界で30例しか報告されていないと綴られている。

私は、初日こそ指のおかしな異常のみの症状だったものの、日単位で進行し、両手から両脚に症状が一気に広がり、入院した時には歩行できず、手も動かせなくなっていた。入院中に診断が下り、治療を重ねるも、ガクッガクッと悪化してしまった。免疫吸着後に悪化し、二重膜ろ過法を行った。いずれも、首の太い頸静脈という血管に心臓までのカテーテルを入れ、そこから全身の血液を抜いて、機械で透析のように処理し、血液を体内に戻した。それでも悪化したので、ステロイドパルス療法(1000mgソル・メドロール)という超大量ステロイドを3日間点滴する治療を開始した日に集中治療室に移動した。そして、集中治療室に転床した日に急変して呼吸が停止した。そして、見事に蘇生された。免疫を落とす治療を3つ立て続けに行っている最中で、口腔内をホースのような管を気管内に押し込んだ。この挿管は人工呼吸器に繋ぐために必要だったのだが、犬の口や肛門よりも汚いと言われる人体の口のバクテリア(細菌)を肺に押し込むことにもなった。(これは挿管と呼ばれる人工呼吸器に繋ぐためにチューブを入れる際には、全例である程度起きる。)その結果、肺炎になり、抗菌薬から偽膜性腸炎という重症腸炎になり、その影響で腸は麻痺する、イレウスになった。その上、溶連菌感染と手術切開部の創傷感染を併発した。この頃毎日スタッフさんに優しくしていただいた上、毎年夏に発売初日にアメリカで購入していたハリー・ポッターの最新巻の音読CDを聞いていた。集中治療室にいた時の記憶は断片的だが、九死に一生を得たというのは、大げさではない事実だ。この間も、A3に拡大した友人のノートのコピーやテスト範囲の単語を見ていたようだ。学校の指定図書や授業範囲の書籍も音読本を聴いた。半分は睡眠学習といったところだろうか? 意欲だけは認めよう。

救命と何ヶ月にもわたる延命治療を経て、日本初症例として治療を受けた私は、見事生還した。そして、数ヶ月間の過酷なリハビリで呼吸のしかたや寝返りの打ち方、歩き方などを一から覚え直した。このリハビリを毎日楽しみ、自分の足で歩いて病院を退院し、楽しい日常へと戻って行った。

この時の病名は、Progressive Encephalomyelitis with rigidity and myoclonus、略してPERM。(他にも病気していますが、本記事はこれが主軸です。)私は発病時期とその時のスタッフさん、当時の日本の保健制度や診療姿勢、そしてスタッフさん達の真心を発揮できる院内環境にも多分に恵まれた。今でも当時のスタッフさんが温かく対応してくれるというのは、神様からのプレゼントだろうね。

もう一つの不幸中の幸いは、発病のタイミングだろう。夏休み前の春頃発病し、2ヶ月強くらいの夏休みを挟み、9月から新学年が始まった。入院自体は半年くらいだったが、タイミングがよく、学校もキリスト教精神で寛大な対応をしてくれた。勉強さえして、同級生と同じ課題やテストをこなせば、進級・卒業に影響しなかった。入院後半から復学初期にかけて、休んでいた時期の課題も試験もこなした。入院前にいた世界に戻れたのは最高だった。

私は元々、英語が母語で、在日中もインターナショナルスクールに通っていた。なので、どの科目も英語では勉強していても、日本語では用語を知らなかった。日本語も第二外国語の授業で学習しており、日本の国語のような内容とは少し違った。そもそも、カリキュラムが違うため、同じ生物の授業でも、日本とイギリスや国際バカロレア(世界各国で母国同等の学習内容として認められている、ヨーロッパ発のカリキュラム)では勉強内容や回答に求められることが異なる。国際基準の本部でも、私の状況は把握され、欠席の補填方法は承認された。発病前の私の勉強成績や真っ直ぐで一所懸命な姿勢を見てくれていた先生方が、本部と交渉してくれたのだろう。世界のインクルージョン万歳。誰もマイナスが発生しない、公平な能力を伸ばす多様性肯定思想と能力向上思想万歳。「できる」を目指せるって素晴らしい。

元々、様々な国の学生と友達になる環境では、様々な言語とも触れ合う。触れ合うからといって、体系的に各国の言葉を勉強するわけではない。ただ、触れ合う機会が増えれば、言葉や発音を少し覚える機会も生まれる。友達の母語を少し覚えたり、英語以外の悪い言葉をお咎めなしに使うために、様々な言語で色々な反抗的な単語を覚えた。その延長で、色々と実用的なフレーズも覚えたり、自然と触れ合う中で理解できる言葉も増えた。この時は、これはただの交流やお遊びの一部だった。後に、こんな反抗期の都合の良い言語学習が人生を変えるなどとは、この時は思ってもみなかった。

私は在学中に発病したため、皆保険があり、今まで勉強してきたカリキュラムに則した、ヨーロッパの医学部医学科を受験し、合格した。アメリカの大学も医療保険が提供される。しかし、私は発病当時1ヶ月程度集中治療室にいる病状だった上、入院期間も長かった。アメリカの大学生として万が一にも再発したならば、私は出席日数不足かつ医療費が高額なために、退学になって医療保険も打ち切られるだろう、との助言を真に受けてしまった。(当時、通称オバマケアで知られるACAがなかったので、医療保険はたしかにハードルだっただろう。)

同時に、日本の病院で生命を救っていただき、とっても優しく丁寧に、真心のこもった対応をしていただいたことに心から感謝していた。なので、日本に残りたいと考えた。しかし、私は海外生活歴や学歴上は外国人同様でも、国籍は日本国籍だ。外国人枠で入学試験を受けられない。また、帰国子女枠も使用の可否に様々な条件がある。そのため、日本の大学に入学するためには、一般入試で今まで積み重ねてきた勉強内容や言語とは全く異なる言語とカリキュラムでの勉強をしなければいけないと知った。勉強は元々世界共通試験でも、いつも上位の成績だった。そして、日本初症例となった時の入院中、私を診てくださった先生方から受験の話を聞き、日本の受験戦争なるものにチャレンジしたくなった。勝つのは好きな競争心が高い私の闘争心をくすぐったのだろうか。

運良く、インターナショナルスクールは9月始まりだ。なので、5月頃に卒業してから、日本で受験するまで約半年間勉強に没頭できる。(本当は、在学中に受験して、4月から大学に入学したかった。けど、この辺はルールが立ちはだかった。今の人生を歩めているので、神様がお導きになってくださったのでしょう。)

退院したのが11月、復学したのは退院から間もなくだった。その後、卒業までに自分の進路を考えた。そして、復学後に入院中に終わらなかった課題をこなし、テストを受け、卒業試験けん世界共通試験の勉強をしながら、数学と化学の比較的言語的ハードルが低い科目と元々特に好きだった生物の3科目だけを並行して日本語でも勉強した。

卒業する頃には、日本でも良い成績となっており、日本でも合格するだろうという助言を受けられるまでになった。せっかく現役で合格した医学部医学科を蹴って、在日に的を絞った。しかし、医学部進学用の塾に入学する直前に、病気が再発してしまった。この時の緊急入院以降も、入院中でも勉強は続けていた。日本の医学部に行くことは、目標でもあった。しかし、辛い闘病生活を頑張り抜けた要因の1つには、明確な目標があったことも一途の光になって、力をくれたのかもしれない。

卒業後間もなく再発した私は、再び集中治療室に入った。その時の私は、赤チャート(数学の参考書)を広げていた。集中治療室のベッド上の机に参考書を広げて置いていた朧げな記憶がある。しかし、集中治療室での大半の時間は参考書を広げて寝ていたと思う。集中治療室にいるほどの体調だ。今ではこの2回目に集中治療室に入った時のことで、記憶に残っていることは数えるほどしかない。

その記憶の1つが、隣のベッドで男性の患者家族さんが、患者さんの名前を何度も何度も大声で呼びんだこと。その時、私は幼かった。「頑張れば、必ず努力は報われるよ」といったようなことをノートの端を破った紙に書いて、患者さんに渡して欲しいと看護師さんにお願いした。その患者さんを元気づけたかった。看護師さんには、「ここはそういう所じゃないから」と突っぱねられた。ドライだったが、冷たい感じではなかった。それから10年以上経って、その晩私の隣のベッドに運び込まれた女性は亡くなっていたことを知った。

この時の入院も、非常に長かった。入院中も勉強は続けており、入院中にその大学附属病院の大学を受験した。詳細は省くが、合格して、病気を理由に辞退せざるを得なかった。当時は「そんな差別的な学校なんて、こっちから願い下げ」と強がりではなく、本心で思ったのをよく覚えている。

この少し前、新聞にある記事が載っていた。がん治療後の子が大学受験をさせてもらうために、親が裁判を起こし、勝訴したと新聞に載っていたかと思う。ただ、受験の試験を他の受験生同様に受けるだけでも、裁判に勝つ以外に方法がなかったようだ。国によっては、受験を断った学校が差別したことで敗訴し、莫大な慰謝料を払うことだろう。文化や慣習ってのは、時に恐ろしい。

私は大学進学を見送らなければいけなくなってしまったことに、非常に落胆したことだろう。この入院中の記憶はあまり無い。きっと、ずっと麻酔が入っていたことも影響しているだろう。

しかし、母が通信制大学を見つけてきてくれた。見せてくれたのは、慶應義塾大学の経済学部に関する情報だった。経済学部が経済に関係すること以外、そして理系、特に生物関係じゃないこと以外、あまり知らず、興味も持てなかった。そもそも、経済学が何たるものかも知らなかった。

しかし、アメリカの医学部は大学に3年通い、必須単位を取得すれば、受験資格があると知った。そこで、興味のある教科が学べる通信制大学に入学した。並行して、プログラミングも勉強できるカリキュラムにも入学した。

今思い返すと、麻酔を24時間持続投薬され、機械に生命活動を担ってもらって、生存するのがやっとな病状で、よくぞまぁ、勉強熱心でいられたものだと感心する。

本エッセイのテーマは、「想像もしていなかった未来」だが、私は自分が医者になると確信にも似た夢があった。その未来を信じて疑ったことはなかった。なので、母と私以外、誰も想像していなかった未来とでも呼んだ方が良いかもしれない。

私は、紆余曲折あり、ヨーロッパの医学部を再度受験し、再び合格した。ここで、学長は「入学試験に合格した以上、入学は拒めない。しかし、電動車椅子の学生は初めてだ。特別扱いは一切できない。」と言われた。そこで、「他の学生と全く同じ条件で、一切の配慮をお願いしません。ただ、チャンスをください。」と懇願した。学長は「分かった。」と入学試験に合格した私を入学させてくれた。その直前に、学長の取り計らいで、在学中の学生けん生徒会長に在学中の様子や厳しいこと等も話す機会を設けてくれた。そして、彼が校内の様々な施設を案内してくれた。

私は、こうしてヨーロッパの医学部に現役合格し、日本の医学部にほぼ現役合格し、再びヨーロッパの医学部に合格し、進学した。

医学部ほど楽しい経験は、他にあっただろうか? 勉強量は多いし、授業時間数も多い。朝から晩まで学校と病院に入り浸っていた。その上、プライベートでも研究、TA(講師助手)として教授監督下で実際に授業を教え、院内で手術に外来、入院患者さんを診る学生医師としての仕事もしていた。毎日、寝るのは絶対に22時を過ぎなかった。自習など、する時間はほとんどない。だから、移動中に勉強し、とにかく読書スピードが劇的に速くなった。卒論は自身の研究を論文にまとめる、日本の博士課程に似ている。これを執筆中、気がつけば一晩で100を超える文献(論文)を読んでいた。アブストラクト(序文)だけ読んで、読んだつもりになっているとかではなく、しっかり全文読んで一晩に100ね。ロビンス病理学という世界の病理のバイブルも、何回読んだか分からない。けれども、4回生になる頃には、1章10分くらいで読めるくらいになっていた。在学中に執筆に携わらせていただいた心電図の本は、今でも医学部の教材として使われている。

朧げながら、「私が生きるためには、医師になる必要がある」と思った記憶もある。医学部は最高に楽しかったとは言いつつも、楽なことばかりではなかった。救命され、過酷な闘病を経た後では、日常は全てにおいて輝いていた。水が飲めるだけでも、深呼吸ができるだけでも、本当に幸せいっぱい。第一、好奇心旺盛で探究心が高い私は、ずっとずっと大好きな勉強がしたかった。遊ぶために大学に入ったのではない。勉学と実習を重ね、剣山の上で目指す医師になるために精進するために大学に入った。根がエネルギッシュだったのだ。この時、様々な国の言語に触れていたことが役立った。母語ではない国の医学部で学習するためには、現地の言葉の習得は必須だ。瞬く間に、赤ちゃんや幼児のように言語力が伸びた。いつの間にか、街中でも院内でも、誰とでも現地の母語でコミュニケーションできるまでに言語力が向上していた。この過程で、反抗期に様々な言語を覚えた経験が役立ったのだろう。努力が何処で実を結ぶかは分からないものだ。

最初の2年は、勉強を頑張っているご褒美に、週末だけ一本KitKatを食べた。こういう、ちょっとしたご褒美や飴と鞭というか、自分を上手く奮い立たせて楽しく頑張る糧となった。また、患者として生死を彷徨い、そこから何度も奇跡の復活を遂げた身としては、医者の知識や技術が患者の生命に直結していると痛ほど自覚があった。だから、「勉強=生命」という使命感も私を如何なる状況でも奮い立たせてくれた。

でもね、正直、本当に楽しかった。もう一度医学生ができるのならば、もう一度やりたいくらいに楽しかった。テレビ番組の話をする同級生の会話が耳に入ると、本気で「こんなに楽しいことがあるのに、何故ドラマを見たくなるのだろう?」と本気で不思議に思った。まぁ、家には備え付けの電化製品(冷蔵庫や電子レンジ)とベッド以外、何もなかった。当然、テレビもなかった。その代わり、専門書で埋め尽くされていた。そして、学校の進級試験や在学中に受ける国家試験に合格した時の豪褒美は、いつしかKitKatから昇格した。プライベートでの興味のある内容の医学書は、どんなに欲しくても、試験が終わるまではお預けにしておいた。いつしか、勉強のご褒美はKitKatからこのような喉から手が出るほど欲しい医学書へと昇格していた。

在学中に抗がん剤治療が必要になった時期もあったが、少しの休学はしたものの、実習は禿頭にケア帽子やバンダナ、ヒジャブに似たターバン風の抗がん剤治療患者用頭カバーなどを着けて行った。そして、試験の時はそのまま禿頭に何も着けず、スキンヘッドに眉毛も禿という目立つ容姿にマスクを着けて受けた。もちろん、全て合格した。(在学中に医師免許を取るシステムなので、当然在学中にヨーロッパの医師免許を取得した。)

そして、容姿が純アジア人ではない車椅子利用者である私にとって、街中でも、院内でも「その他大勢の中の1人」という森の中の目立たない木になれる感覚は非常に快適だった。初対面の人は私を現地人だと思って、差別や偏見とは無縁な快適な生活を送っていた。

ヨーロッパの医学部卒業後に、既にヨーロッパの病院で就職していた。
実は、私はヨーロッパに永久移住するつもりでいた。

そんな時、私は骨髄移植を受ける側の患者になった。その後長めの休暇を取り、免疫力が再構築される間、元々興味があった研究をするために移植前にアプライして、Oxfordで免疫の研究をする予定も決まった。

骨髄移植は、診る側としては治療に従事していた。しかし、患者として体験・体感するのは、想像を絶した。(それでも、初めて蘇生されたI集中治療室での闘病を10段階の10、元気で身体的苦痛が無い状態を0としたら、超大量化学療法(超大量抗がん剤)±放射線で自分の骨髄を破壊する骨髄移植を受けた。骨髄移植という呼び名で有名だが、皮下注射で血中に呼び出した幹細胞を採取し、それを移植する末梢血造血幹細胞移植を受けた。その直後ですら、「え?こんなもん?蘇生周辺と比べたら、10段階の3くらいかな?」と思ったのは、今でも鮮明に記憶している。けれども、「もう一度受けろと言われたら、受けるだろうか?」と思った記憶もある。再発したら、再移植と主治医に言われた際には、「はい」と言いながらも、実際にはどうするだろうか、と少し考えた記憶がある。

2019年の夏、私は移植でボロボロの肉体で、退院後も毎日何度も嘔吐していた。心臓の機能も健康な人の半分と循環器内科で言われた。骨も
90歳くらい。免疫は産まれたての赤ちゃん。血球も少ない。そんな時、友人が日本ショップで色々と日本の食材を買ってくれた。美味しかった。そして、不思議とお米で作ったお粥などは、嘔吐する確率が他の食材よりも低かった。お米って凄い!

上げ膳下げ膳で、美味しいご飯を食べられる誘惑。私は二度と戻らないと決めていた日本に、研究を始める前まで少し羽を伸ばしに訪れた。

人生の教訓。

自分だけ特別ということはない……

私は、移植後2ヶ月未満で再発して、緊急入院し、集中治療室(ICU)に似たハイケアウニット(HCU)に夜中に入院した。朝から治療を受けていると、教授回診に訪れた教授が私が「元いた国の教授によろしく伝えてください」と言った。その日か翌日か、記憶が曖昧だが、日本では治療できないと告げられてしまった。

ハ!?

この時は、流石に絶望した。
心不全で「心臓は健康な人の半分の機能」と医師に言われた。
卵巣もまだ機能温存できているか、不全になっているか分からないにせよ、生理は止まっていた。
肝機能も若干異常。
血液の細胞数すらも異常。

臓器ボロボロになって、病気だけは健在……

移植前に、こうなるくらいならば移植しない方が良いと思っていた、最悪のシナリオ。

なんだったんだ、あれは……

そして、効果的な治療もできない、と集中治療室のような場所で再発翌日に引導を渡された。

治る見込みがない絶望感。
医師らに治療の可能性を否定されてしまった時の困難。(まぁ、別の病院を紹介してはくれたが……)
受診拒否という概念が存在しない国で医者をしていた私には、大きな衝撃だ。
そして、完全に寝たきりの状態で、医療トランスポートで飛行機で搬送される以外に元いた国に戻る術はない。
第一、そんな体調では仕事などできず、在留資格保持など困難であろう。

日本国籍の人間が母国で医療を受けられないなんて、あり得ない。

回復して人生を再び謳歌する可能性が消失した絶望感。
自分の人生を他の国に置いてきて、誰も知らない土地に、慣れない文化の不思議な国に迷い込んだ、困惑。

どうしようもない、認識も言語化も難しい感情で胸中大荒れだろう。

その時、自分の生きる意味を探した。

そんな時、日本の医師国家試験の勉強をしている友人に電話をした。

一緒に勉強しないかと誘ってくれた。

その友人の役に立てれば、寝たきりで呼吸状態も悪い、一生病気で今後どうなるかも分からない自分が生きている意味があるように感じられた。

だから、日本の医師国家試験の問題を一緒に説き、その子と一緒に国家試験の勉強のためのオンデマンド教材を試聴し、一緒に内容や考え方を説明し合いっこしたした。(他者に教えられるようになって、初めて本当に理解し、記憶していると言える。なので、スタディーグループで教え合うのも、科学的に有効性が証明され、各国で推奨されている勉強法だ。)

勉強はとっても楽しい。
友達の助けになることが目的だったので、体調第一で気楽にちょっと勉強した。

きっと、友達と一緒に何かできるというのも楽しい要因の一つだったことだろう。

私は美味しいご飯に感動しながら、絶望的な状況で、前だけを見て笑って毎日を楽しんだ。

2020年3月。一度は体調が理由で2019年秋から2020年3月にOxfordでの研究開始を延期していた。研究開始予定の月に世界は死の海と化した。この時、世界が新型感染症で医療崩壊し、第二次世界大戦やスペイン風邪を大きく上回る死者数を出した。

私は島流にでも遭ったかのような心境だった。

従来の開発や研究スピードから推測すると、数年は効果的なワクチンが開発されるまでにかかると踏んだ。そして、感染症が終息し次第、元々の人生のレールの上に戻る気満々だった。

ならば、世界中がロックダウンし続けるであろう数年間、何をする?

元々、公衆衛生に興味があり、新型コロナで感染対策などの公衆衛生の重要性が一気に明確化して輝いて見えた。なので、私は足早に受験して、公衆衛生大学院に入学した。

同時に、日本にいるせっかくの機会だから、日本の医師国家試験を受けようか迷った。

とはいえ、日本の医師国家試験の勉強は第二外国語のような日本語で受けなければいけない。

本格的に勉強を始める前に試しに医師国家試験の過去問を通して解いてみた。成績は7割8割くらいの正答率だった。内科外科や産婦人科、小児科などの臨床経験もある科でも8割強。言語の壁があるとは言え、こんな低い成績では、到底合格なんて無理だと思った。

こう思った理由には、母の国家試験武勇伝を聞いて育った背景もあるだろう。母は3ヶ月間、生まれて初めて本気で勉強して、医師国家試験で9割以上取って合格したとよく聞かせてくれた。子供の頃から、日本の医師国家試験の合格ラインは9割だと勘違いして育っていたのだ。私自身、小学生から高校卒業まで、転校初期こそ奮わずとも、いつも満点かそれに近い成績を納め続けている。ヨーロッパの国家試験も筆記は1問落としたくらいで、ほぼ満点合格だった。小中高と統一試験や日々のテスト・試験も基本的に満点ばかりだった。それは、世界の統一試験でも同様だった。小学生の頃に勉強せずに、前日バッチリ早寝して備えただけで受けた日本の統一試験も、算数は全国でトップの満点。その年は私ともう一人だけが日本全国でたった2人の満点トップだった。なので、試験とは、基本的には満点かほぼ満点が当たり前だと思っていた。だから、実は7割や8割の自分の成績を見た時には、どうやっても合格は難しいと、自分で勝手に箸にも棒にもかからないと落胆した。後に、実は合格ラインが7割強くらいが多いと知ったのは、国家試験直前くらいだった。自分が受ける試験の下調べくらいすべきだろう。とはいえ、闘病中で毎月1週間くらい点滴を受けていた。バイトもしていた。今考えると忙しい。けれども、自分にできることを最大限やることで、私は病気が治らないという現実を逃避しつつも必死に受け入れ、自分の存在を肯定しようと奮闘していた。

医師国家試験対策でやった内容は以下の3つだ。

  1. 過去問

  2. MEDU4

  3. 直前期にMACとTECOM模試の2つで学力チェック

気に入った教材を使い、反復あるのみ。

外国の医学部を卒業した者は、夏に日本語けん実技試験がある。やることは、模擬患者を診察する部門。次に問診して診断し、日本語でカルテを書く部門。いずれも、医者としては慣れている内容であっても、日本語の能力試験なので、日本語力が試される。

私は友人と勉強している時も英語で会話していた。そして、2019年に日本に来るまでの約10年間、日本語を母以外と話さず、読み書きもご無沙汰していた。日本人の友人とも筆記は英語でメッセージ交換をしていた。医学用語は特に、見たこともない漢字が多々出てくる上、聞いたこともない用語も出てくる。漢字から勉強していたら間に合わないと考え、単語を丸ごと慣れている言語の医学用語とペアで暗記した。なので、この実技&日本語試験までは、日本語の能力向上と診断技術や問診技術向上にオールインで挑んだ。

筆記の日本の医学部生と一緒に受ける医師国家試験の勉強は、この試験の後に開始した。

先ずは全カリキュラムを通してMEDU4を視聴し、再度科目別に練習問題を解きながら視聴した。この時、内容的には今まで勉強・臨床で心血注いで修業してきた医療と同じことに安堵した。医学は世界共通だ。後は、日本で多い疾患や眼科や整形外科などの今まで密に接して来なかった科を補強するだけ。

問題は試験の3割をも占める公衆衛生だった。これは、国を跨ぐと全てが違う。国の制度も違えば、平均年齢から多い疾患まで、ありとあらゆる内容が初見だ。そして、友人と勉強した時には、私達はお互いの強みを活かして一緒に勉強していたので、公衆衛生はノータッチだった。しかし、多少なりとも公衆衛生大学院での勉強内容も活きてきた。ただし、国家試験では暗記科目で、日本独自の制度に重きが置かれる。なので、主要の絶対に落とせない内容をしっかり学習し、細かいところは時間を割きすぎない戦法に出た。

結果的に、日本の医師国家試験も一発合格。

私は2大陸で医師免許を獲得した。

こうして、私は母校で初めての電動車椅子利用者として医学部に入学し、立派に一度も留年せずに進級し、医師免許をトップの成績で合格して、就職して医者になった。

日本という母国でも、今の初期研修医制度が始まって初めての骨髄移植後(造血幹細胞移植後)1年程度かつ電動車椅子利用者の重度身体障害者として、世界を呑み込んだ新型コロナパンデミック禍で医師国家試験に一発合格した。

こうして、波乱万丈で紆余曲折ある人生で、私は思春期に命を救っていただいた国で医者の卵になる資格に合格したのだった。

人生何があるか分からない。

しかし、自分を信じて、その場その場で、自分にでき得る最善を行動に起こしていると、道は拓けるようだ。

誰も成し遂げたことがないことだからこそのやり甲斐もある。

今を大切に生きよう!


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