再び、窮地?から復活するゾ〜✊
久々に素。
自分にも他の人にも100%正直な今日この頃
そして、久々に味わう安心感。
「生かす前提」というのは、多分今強く自覚しているだけで、スタッフもずっと「生存」は譲ってはいなかったのだろう。
おそらく、一番は自分が「何やっても改善しないくらいなら、全力で良いアウトカムを願って、攻めて、途中で戦死しても、せめてワンチャン狙ってベストは尽くした」という道の許容から、
「やっぱり、最小限のリスクでベストのアウトカムを狙いたい。病死も戦死も嫌だ。絶対に最善の方法を見つけたい!」と願う今までの自分を取り戻して、前向きに最善を願って前進する心境へと変わったというのが一番大きいかもしれない。
それまでは、内心諦めた状態8割に間々傾きつつ、「どうせ治療上手くいかずに生き地獄のような苦しみを味わうなら、いっそ全て終わらせた方が良い? でも、生きたい。ならば、改善の可能性がある危険な博打でも、失うものがないならワンチャン改善に賭けて、代償を許容しようかな?」とか、「もう終活方向で、最も短期間に安楽な苦しみが最小限で、楽しみや夢ある地での最期」というオプションもたまに頭を過っては思い直し、「生きたい」とか「良くなりたい」と願いつつ、葛藤の中、どこか「ベストのアウトカム」を願って求めているのがある意味家族だけに感じる孤独感に苛まれつつ、「こんなによくしてもらってるじゃん!」と思い直し、思考の渦に呑まれまいと必死に奮闘し、目の前の幸福感にしがみついて、それを生きる希望までは膨らませないように自制しながらも生きる活力にはして、日々前向きな気持ちを繋ごうと、一歩一歩血の滲む足で、吹雪の中を必死に耐え忍びながら前進しようと踏ん張る日々、みたいな心境?
そういう意味では、朽ちそうなメンタル回復を狙った、大きな行動は目的通り「生きる」にしがみついて頑張れる大きな柱を再構築してくれた。
しかし、一番は現状を間近でみて、状況を把握している医療職でもあり、最も身近に日々接してくれる看護師さんの言葉だろう。「良くなるといいね」に号泣したところから、どんどん優しさや丁寧さ、接してくれる元々優しい方から、最初接した瞬間はそうでもなく感じても思いやりが増していってくれると感じるスタッフさん達に癒される日々。そして、キツイ時の「頑張れ😊」という温かい声がけ。「明るくて元気もらえる」とか「強いね」という言葉にも多大なる肯定感を感じ、自分の現状「ただ生きているだけ」と社会貢献度の低さを悔やみ悲観することもあった。けれども、生きて頑張り続ける姿勢もまた、接する人々に何かプラスの影響を与えられたら、巡り巡って社会貢献していることにもなってくれるんじゃないかな? と思える。
そして、自分の病状や治療歴を知らずに「祈れば神様が治癒してくださるよ」と励ましてくれる時の葛藤や苦しみではない、医療職だから安心する励ましがある。ある意味、ぶっちゃけ、生きてるだけで奇跡とも思ってるし、何度も何度も神様に救っていただいていると思っている。けれども、持病の完治には至っていない。すると、励ましとして言ってくれる「神様は万人を治す」という言葉に軽さも感じつつ、自分の信仰や行動、様々な努力が足りずに、「自分だけが、自分のせいで治れない」という重圧にすら感じる時がある。ある意味、全てに意味があり、病気持ちの自分だからこそできる神様が計画してくれた私だけの偉業があると信じた方が、楽だし前向きになれる時もある。(人って難しいよね)
病状はというと、6ヶ月間のかなり踏み込んだ治療の甲斐も虚しく、難治性な状態でここ数年で一番底辺……に感じることもある。症状だけで考えたらもっと厳しい時もあったかもしれない。しかし、病勢や治療オプションを総合的に見て感じる前進の手段や手札といった面で楽観視はできないという意味で、結構這い出るのが難しい状況という意味だ。また、治療の長期副作用がやはり気がかりかつ、いずれ大問題を起こすリスクも、長期的な生命予後に響くであろう内容もある。特に、脳や心臓の血管系、特に脳血管イベントはやっぱり避けたい。
今までの治療を継続すれば、生きれるだろう。良くて1年後くらいには、増悪前の体調に戻れるかもしれない。しかし、体調改善の後押しはできると人生が大きく変わる。
態度には注意しつつも、必死さは口調やワードチョイスの棘として表出してしまっていたかもしれない。(これは、要改善!!)しかし、次に繋がった😊 嬉しい。とはいえ、長期的な身体的影響という意味でも、短期的には感染症という意味でも、懸念がないと言ったら嘘になる。この辺、できる予防に注力したい。そして、変えられないのならば、同時にあんまり考えずに目の前の幸福感を感じることに集中したい😊
現状では、おそらく最善であろう策。これを実現してくれた主治医に感謝しかない。
下手すると、この5年間寝て蒸発していったように感じるのと同様に、そこには自分の選択によって、明るくて建設的な道もあるとも感じる。そう思いたい。
やはり、寝たきりで悲惨な状態でただただ時間だけが早送りのように過ぎ、私だけが浦島太郎のように社会から取り残されるような未来も頭を過るというのが本音ではある。
それは嫌だ。
絶対、明るく建設的で幸福感ある道を開拓したい。
緩和治療も、さして緩和威力を発揮せず、むしろ今上手くいっている治療が後手に回り、最悪?現実的な可能性として?治療自体が病状の一過性の悪化に起因する可能性がある。下手すると、余命を左右することにとどまらず、現状の限られているものの、短いながらも眩しいくらいの幸福感ある時間すら奪ってしまうリスクは要考慮。(全て順調に行く可能性もあるが、長年の経験から、緩和できる症状が一部なのと、何年間も肉体的制限によって我慢を強いられてきている分、たかが外れたように「多少無理が効く」と錯覚し、一般の人の日常より健康的な生活習慣だとしても、動作が増え、それが結果的に無理になり、病状増悪のきっかけを自ら作ってしまうリスクも要考慮。ただ、散歩するとか、ちょっとお茶するとかいう次元の「普通」で全然「無理」には思えない行動。喉から手が千本湧き出て抑えられないほど渇望する、平凡な日常。これが手に入ったように錯覚してしまうのも危険ははらむ。(パッと鮮やかに咲き乱れて散る美しく幸福な人生も一つの素晴らしい生き方だと思うが、美談になれるような最期ではなく、絶望や後悔、自己嫌悪や自責に塗れた長く苦しい最期も想像が容易だ。ただ、この一時の多大なる幸福感が、何ヶ月も肉体的苦痛に耐え忍んで、次の花を切望し、計画し、その夢にしがみつくことで生にも色々なことにもしがみつける力になるかもしれない。しかし、怪我のようなスタッフが慣れた道のりではない。緻密で複雑で、繊細かつ臨機応変で適宜かつ頻発な調整が必須なのは、内服薬から経験しており、それがスタッフの予想以上の重労働で、それを請け負う択はなく、途中で「そこまでやる必要は無い」と言われるだろう。その際、内服薬のような自己調整はできない。そもそも、内服薬との併用が本当に可能か、同意していない投薬や薬剤調整が一切なされないか、やはり自分の目で見て、自分で納得して、そして自分に最終的な決定権がある方法の方が落ち着く。(今まで、色々なところで、色々なことがあったからね…… 信頼したい、信頼できる人、そして判断がつかなかったり、信頼できない人も出てきてしまう。そして、現在信頼にまだ至っていない場合には、信頼までの道のりは相当険しい。たまに、それなのにヒョイと不用意かつ人選がイマイチな感じで誰かを信じちゃって、痛い目を見ることもある。まぁ、信頼できないことで失っているものの方が多いと予想はするが……
とはいえ、症状からもしも開放される比較的簡単な道があるならば、それも夢見てしまう。ただ、昔上手くいったように見えたこと再度やってもスタッフや時代合併症や今まで積み重ねて来た経験値もある。最も重要なのは、治療で時間を遡り、昔の身体に全てが戻る印象ではないということ。処置はあくまでプロブレムAに対する、副作用や合併症、今後も続く治療のスタートであり、魔法ではない。
すると、現状が改善傾向なのか、緩徐に悪化傾向なのか見極めて、何か上手い改善策を打ちたい。対策を講じ始め、心中は穏やかさを得た気もする。
いくら考えても、安全で効果が期待でき、クローナルセレクションなどで一過性には良く感じても、長期的には予後を悪化してしまう完治には至らない投薬と、効果が読めない治療2つしか思い浮かばない。しかし、思考は思考、現実は現実。上手くいくと信じてできることに全力を注ぐしかない。
明るい未来?と
今ある幸福感に必死にしがみついて、
今を大切に生きよう!!