#読了 近藤誠著 「大学病院が患者を死なせる時」
この本が、一体どのような本かという印象は↓↓のリンクから
最後まで読んで、思うことは「やっぱり、皆が多かれ少なかれ似たような考えに帰着するんだ」ということ。
治療法に関しての結論はさておき、心構えのようなものには強く共感する。
2003年に出版されたことに驚いたが、元は1998年に出版された同著者の「なぜ、ぼくはがん治療医になったのか」という本の改変だそう。
もっとずっと古い時代のことが書かれているのかと思って読んでいた。
たった20年前ということに、戸惑いを隠せない。リベラルでこういう感じか。まだ、そこまで前ではないから、今も脈々と受け継がれて、風土に影響しているのだろうか。
一つ一つ同意する点と、個人的な意見は以下に。
1️⃣医原性・制度
個人的には、医原的なことで命を落とす患者は可能な限り減らすという意見に賛同する。ゼロにできるならば、それは理想的だろうが......
加えて、制度的な原因によって救える命が失われることも避けたい。
2️⃣ 最新の医療
世界中で取り組まれている医療を積極的に取り入れて、目の前の患者に最善のアウトカムを届けよう、と考える近藤医師に強く賛同する。
同時に、最新文献のみを根拠にせず、もう少し深く考え、それまでの知見と統合することも重要だろう。
世界では既に成功実績を積んでいる標準治療のみを抜粋すべきか...... 新しいことでも、緻密にプランを立てれば、危ないことばかりではないのではないかとは思う。ただ、従来の日本も世界も共通の医学常識を裏返すことに関しては、慎重な考察が必要だと思う。
一原的に新しい・新しすぎる=やらないと決める必要もないとは思う。
3️⃣化学療法や手術
近藤医師は、抗がん剤や手術が効きづらいがんにおいては、これらを強く否定する立場をとっている。希望する患者には、その行為を否定していないそう。
私は、一元的な否定ではなく、テイラー医療がベストだと思う。しかし、副作用を抑える薬剤が増え、がん治療で効果が認められている免疫療法(認可薬)が増える昨今と、1980年代を比較するのは難しいだろう。
たしかに、治療後のアウトカムが治療で改善したのか、あるいは治療と関係がないものだったのか、ひょっとしたら悪化したのかは、一個体で同時に「やった」と「やらなかった」を比べられない以上、明確な答えは出ない。
同時に、結局はこの答えは重要ではないのではないかと思うことがある。
化学療法に分類される抗がん剤は薬価が低い方だろう。最期との向き合い方も、延命やQOLに対しての意見も個々で違う以上、患者の希望と価値観に寄り添ったエビデンスに基づく選択を後押しするのが適切だと思う。
欧米のとあるがんセンターの放射線科医がこう述べた「前立腺がんにおいて、手術と放射線科は治療効果が同等ないし、放射線が若干優れている。加えて、手術では切除して機能を失う神経を、放射線治療では温存できる。僕がもしも将来前立腺がんに罹患したら、放射線治療を選択する。」特にほどほど早期の前立腺がんは、今の時代放射線科治療が多いものだとばかり思っていたが、これが現代の「乳がんハルステッド手術 🆚 温存手術」と同じ冷戦なのかな? とはいえ、各々の治療にリスクとベネフィットがある。どちらもきちんと理解した上で、自分の思想と病状に最も適した治療を選択する必要があろう。
ここで重要なのは、one protocol for all の...... 全例に盲目的なクリニカルパスの適応ではなく、薬剤の選択、その量、投与間隔など様々なことを考慮した上で患者と一緒に治療計画を決めていくべきだろう。場合によっては、多剤併用がスタンダードであろうと、患者の体力や病状によっては、低容量の単剤投与も考慮して良い場合すらあるかもしれない。視野を広く、考察は深く広く、そして患者を交えてチーム全体で話し合って決めるのがベストだと思う。
4️⃣ 情報とチーム
今ではルーチンのインフォームド・コンセントだが、様々なオプションの各々のリスクとベネフィット等を全て開示して、患者自身に決めてもらうというのが一番だろう。
現在では、副作用に効く薬剤も増えた。抗がん剤治療が必ずしも、七転八倒の苦しみを意味しないという点で、1998年と現代では違いもあろう。
院内外の医師がチームを組み、科の隔たりを超えて協力して患者を診るのは理想的だと思う。(欧米では、結構一般的。日本でも、科によっては一般的。)
5️⃣主治医制ね...... 一長一短?
(ここでは、詳細は省こう。)
6️⃣病名告知・家族の立場
病名告知は必須だと思う。これは、基本的には小児から高齢者まで、例外は稀だと考えている。(実は、今でも家族の意向に沿って、告知しない場合もある。過去のことじゃないことには驚きを隠せない。)
告知の有無も治療法も、患者を差し置いて家族が決めるというのは...... 結局は他人が責任を持てないことだし、本人にしか分からないこともあるからね...... 患者主体で決断していくのが大切、という点にも同意する。
そういう意味で、昨今議論される、「私はもういつどうなってもいいの。でも、家族がどうしても治療を受けて欲しいというから、私は仕方なく治療するの」という場合には、どうすべきかは大きな問題だ。ただ、患者自身が考えることを放棄していて、自分がどうしたいか考えていないだけという可能性もある。または、本当に治療を受けたくなくて、家族の反応や心境に踊らされて、嫌々心底受けたくない治療を許容している可能性もある。第三の可能性として、自身の受ける医療に引け目を感じており、複雑な心境である可能性もあるかもしれない。
ただ、長期闘病中に一過性に「もう、どうなってもいいから、治療も闘病もやめたい」となることがあったとしても、その後、気が変わることも十分あることも念頭に置く必要があるだろう。
7️⃣実は客観性が疑問視される?
そう!! 医師は100%客観的な第三者ではない。治療の当事者として、自身の感情に影響を受け得るということは、認識されるべきだと思う。認識さえしていれば、より客観的でいようと思える、他者の意見に耳を傾ける姿勢も影響を受けるかもしれない。
「楽しい」が原動力になることもあるし、腕を磨きたいという気持ちがある場合もある。逆に、疲れているとか、忙しいとか、人生の分岐点で患者を診てる余裕はないとか、自分でも認識せずに自分の行動や思考が影響を受ける場合もないわけではない。
人間である以上、様々なことが体調や感情に左右されるのは仕方がない。だからこそ、それを認識することで、対策も取りやすくなると思う。(以前は、医師が家族の診察や手術をすることは多かった。しかし、親族の治療は感情に大きく影響を受けてしまい、適切な対応ができない場合があると周知された。以降、医師であろうと、基本的には家族の治療の主軸にならない配慮をする病院は多い。)
8️⃣余命宣告
告知に戻るが、余命宣告で明確な日数・月数・年数を言い切るのは良くない!!
これは、あまりにも酷な上、本当はそこまで明確に予想などはできない。本文中にある例が最善だと思う。他にも、「あくまで、正確な期間は誰も予知は不可能」だと告げた上で、朧げな時間軸が行動指針にはなる程度の結論じゃない連想を主体とした伝え方もあろう。
個人的には、こういう伝え方が「〇〇日とか、〇〇ヶ月とか、〇〇年」とバサっと言い切ってしまうよりも圧倒的に良いと思っている。
9️⃣未知への挑戦
誰もまだやったことがないからこそ、可能性に賭けてやってみようと考える者もいれば、前例に忠実に...... それが仮にほぼ確実に失敗すると知っていても、新しいことを嫌う者もいる。
何が正しいというわけではない。
これは、医師の考えと意気込み、患者の姿勢や価値観を統合して、case by case に試みの安全性を考慮して決めて良いのではないかとも思う。
また、「やらない」という決断の時の患者の致死率や障害の程度によっても柔軟に考える可能性を残しても良いと思う。
同時に、医師の人生もかかっているのであれば、患者のアウトカムのみを主体にできない場合もあることも理解できる......
本文でも出てきたが、「患者が亡くなった時、医師に取れる責任などない。」
🔟 責任
そう。
確かに、亡くなった患者を生き返らせることができないのだから、その後、取れる責任など無い。
しかしだからこそ、治療は絶対的な正解がない。医師の姿勢と患者の価値観、各々の患者に合った決断は常に変化するだろうと思う。
最後に
これは、あくまでも個人的な感想と考えのまとめのようになっている。皆さんも色々考えては、様々な場面に遭遇し、都度考えを訂正したり固めていってください。
ぜひサポートよろしくお願いします。 ・治療費 ・学費 等 に使用し、より良い未来の構築に全力で取り組みます。