患者として嬉しいこと
症状や様々な環境で困っていること(困っている自覚はなくとも工夫を必要とすることや、耐えて乗り切るしかないこと等)を質問してもらえるのは嬉しい。(本当は困っていても、それを困難として捉えず、解決策に集中して、それに漕ぎ着けられずに藻掻いていたり、耐えるのみと割り切って苦痛に無言で耐え忍ぶ以外の発想すら湧かないこともある。そんな時、質問という新しい風は救いになることも多い。)
色々な人がいて、色々な価値観があるだろう。
けど、認知度が高くなくて、まだまだ情報が少ない疾患や見た目では分かりづらい症状等に関しては、やっぱり聞いてくれると非常にありがたい。
質問があって初めて、「あ、こういう状況で、こんなに苦しく辛いにも関わらず、見える化できていないんだ!」と気がつけるのは非常に貴重だ。(見えないことに他者が気が付かないのは当たり前。見える化が必要と気が付けるだけでも、大きな進展に繋がる、貴重なインプットなのだ。)
そして、相手から見ても、見るからに何かしら辛そうでも、それが何かは言葉を交わして初めて分かる。
だから、やっぱり会話や質問は非常にありがたい。
細部で時間をかけて意思疎通していく中で、徐々に認知度や理解度が増していくのだと思う。
そして、私は特に目先の痛みや苦痛よりも、長期的予後に重きを置く思考をしている。
だから、今一瞬痛い治療、1週間副作用が辛い治療の苦痛は軽減できるに越したことはないけれども、それは耐えて乗り切れれば良いと思っている時には、葛藤の中心ではないことが多い。
それよりも、
早期介入できないと人生が大きく変わってしまう病状の治療の可否
簡単な予防意識や輸液調整で予防できる臓器障害
適切な合併症予防のための投薬・断薬・ドース調整
何度注射をしても血糖値を改善することで腎臓や眼、血管障害を極力予防ないし進行を遅らせること
末梢血管がなくて緊急時に点滴一本が入らないだけで命を落としかけた経験が多々あることから、そうならないための血管温存
何度も何度も敗血症(敗血症+DIC)になっていることから、清潔操作の徹底
等など
今の痛みや苦痛よりも圧倒的に注視したいポイントが、おそらく他の患者さんと違う。
(他の患者さんも同じ想いだろう。ただ、医者としての知識や経験、過去病歴・治療歴を通しての経験があるが故の視点もあるのだろう。)
(痛いとか、苦しいとか、気持ち悪いとかって言っても、不利益を被らないで助けてもらえると信じているから、そういう症状も言えるのかな? あるいは、私が癖で自己診断に達して、コレは危ない、今は危険がなくとも状況が急変して一刻を争う状況に変貌するかリスクの有無を割り出した後にのみ、生命を守るために必要性を感じた場合に限って伝えることも少なくない。コレは苦痛はあっても命を左右しなさそうと自分で判断すると、言うほどでもないかなぁ、と気づかないうちに情報選別しているのかもしれない。私も、きっと言えば助けてもらえるのだろう。ただ、こういう治療はこういう副作用が当たり前だと思っていると、それがよっぽど耐え難くて、もうそのために命を落とすリスクが増さない限りは、「今は我慢」とか、そもそも「無視に努めるしかない」とか、良くも悪くも色々許容範囲が変化しているのかもしれない。)
(他にも、環境や症状の苦痛、治療の可否への影響や、命が脅かされ得る状況で、医学的には可能な治療があっても、諸事情によって自宅でお看取り方向にいく可能性が頭の片隅から消えない。ならば、とにかく手のかからない患者という役に可能な限り徹することで、ライフラインが維持できるならば、命の方が目先の苦痛よりも圧倒的に大切だ。そして、短期的な生存の方が、長期的な寿命短縮よりも優先される場合もある。今生きれなければ、明日以降もないからね…… それが、一カ月とかスパンに差はあれど、生命を繋ぐことが最優先に感じるのは、致し方ないだろう。危機意識の程度は、状況判断や想像での埋め合わせ、過去の実体験由来のPTSDなどと複合的な要因に影響されていることだろう。)
(あとは、長期的にただ生存しているだけで、自宅で寝たきりで生きる目的が生存のみと化して、苦痛に悶え苦しむだけの日々も辛い。人間、ある程度は心拍と呼吸が維持されている以外の楽しみも必要だ。それは、どんな環境でも得られるし、生み出せると思っている。けど、それでもやはり、そのハードルは環境や体調によって大分変わる。そして、周囲から理解を得られて、協力も得られて、助けてもらえる状況ならば、結構耐えられる肉体的苦痛も増す。逆に、誰からも見放されたように感じ、自分の力ではにっちもさっちもいかず、八方塞がりに感じるほどに追い詰められていると、求めれば得られる周囲からの理解や助けですらも、相手に助けを求める余力すら衰退・減衰していって、自らその芽を摘んでしまうこともある印象だ。)
だから、弱っている時ほど、耐えるだけで精一杯で、周囲に発信する力すらないほど苦しい。そんな時ほど、そして周知度が低い難しくて新しい概念がある疾患ほど、どんどん遠慮なく色々聞いてもらえるというのは、この上なく嬉しい。
闘病が長くなればなるほどに、患者自身にとっては当たり前の症状や苦痛が、周囲にとっては病気の当たり前の症状として紐付けされていないことに気が付けない。
教科書や文献に多々記載されていないけれども、患者自身にとっては苦痛が大きい症状は、患者自身の言葉でしか伝わらない。(あとは、自分で研究して文献を出すとかね😅)
いずれにせよ、医療に関わらず、人と人が理解し合うためには、会話は必須だ。
だからこそ、遠慮なくドシドシ質問して欲しい。
当然、未知のことを知らないというのも、珍しいことを知らないというのも、患者が言わないことを知らないというのも、医療者にとって一切恥ず必要がないことだ。
だからこそ、躊躇なく色々質問してくれたり、気がついたことを声に出してくれたり、見た目では分からないとか、患者の態度や声、表情からは伝わらないということもどんどん指摘してくれるのはありがたい。
こういう交流によって、少しずつ希少疾患や非一般的な患者の思考や個別の葛藤が伝わっていくことは、患者にとって非常にありがたく、他の同病者の境遇の改善や多様性の面からも喜ばしいことだと思う。
患者数が多く、色々な人が症状や苦痛を声にする環境と、患者数が少なく、その一人が口下手なのとでは、やはり情報伝播のしかたは違うことだろう。
だから、色々聞いてくれて、本当にありがとう。
色々な人がいるだろうけど、私は直球で質問してもらえるのは、とてもありがたいと思っている。
今を大切に生きよう!
今回の記事はこれでおしまいです。
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