3-12.「死にたい」という言葉に憑りつかれる
私が和香子から受けてしまった悪影響がある。それは「死にたい」という感情を強く植え付けられてしまったことだ。
痴呆のせいか、鬱傾向の強かった和香子は、一日に何度も「死にたい」「早くいなくなりたい」「どうしておじいちゃんは迎えに来てくれないんだろう」と繰り返していた。
和香子の部屋にいる三時間で百回以上「死にたい」「殺してくれないか?」と言われまくったことにより、もともと精神的に安定していない私の中に「死にたい」という言葉が刷り込まれてしまった。気が付くと、いつも自殺を考えるようになっていた。
転勤で親と離れたことにより、平日の私の心は落ち着いていた。寂しさは抱えていたが、毎日学業と、心理学の自主研究と、自治会と飲み会に忙しく、充実していたので身体も疲れ、よく眠れていた。
しかし、落ち着いていたからこそ、冷静に「今死ぬと、楽になれる。この先もう二度と怖い目に遭うことはない」と考えるようになった。
両親が札幌に戻って同居することになれば、また恐ろしい日々が幕を開けてしまうだろう。その前に、この世から逃げた方がよい、と思うようになった。
そうなると、日々の関心は「どうやって死ぬか?」に全て注がれた。
それだけで倫理学や哲学の授業がすこぶる面白く感じた。
なるべく死体が汚くないようにしたい、なるべく苦しい思いはしたくない、なるべく人に迷惑をかけたくない、などの理想の死に方を考え、調べるようになる。
ある程度夢中になり、死に方の候補が増えるだけで安心できた。たっぷりと情報を得た私はいつでも死ねることを知ったので、この時は実際に死ななくても満足できた。しかし、もう完全に思考の習慣になってしまった「死にたい」と思う癖は、その後ずっと消えることがない。嫌なことがあるとすぐに「死にたい」と思ってしまうし、口にしてしまう。
一度「自殺」を検討してしまうと、その後の人生で大事な選択をする時に、必ず「死ぬ」という選択肢が入ることになる。すると、いちいち「それはダメ」と自分に言い聞かせる労力が必要になる。
今漠然と「死にたい」「消えたい」と思っている人は、自殺方法などについて詳しく調べないことをお勧めしたい。本当に選びたい選択肢は絶対に「死ぬこと」ではないはずだ。
私も本当は死にたいのではない、と思う。
今降りかかっている嫌なことに対して「解決したい」「逃げたい」「許されたい」と思っているし、できれば「幸せになりたい」と強く思っている。
でも、それらのプロセスを考えたり、こなしたりするのは大変だ。自分の存在が消え去ってしまうのが一番手っ取り早く感じてしまう。それが「死にたい」という言葉になっているだけだ。
つまり私は「あー、死にたい」ではなく、「あー、めんどくさい」と言っているのだろう。
これを書いている今も、私は時々「死にたい」と言ってしまうことがある。
昔のことを思い出して文字にする作業はつらい。その感情と戦うことはめんどくさい。だから死にたい。未だにその呪いと戦っているのだ。
私はめんどくさがりなので、「あーめんどくさい」と言ってしまうのは仕方がないと思うようにしている。「そうだね、めんどくさいよね。めんどくさいことに、いつも取り掛かれてえらいね」と自分を励まして生きている。無理に生きたいと願うことはできないので、「私は死にたい方で安定している」と思っている。