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平城京の都市景観(1300年前の高さ制限)

九條です。

平城京の都市景観について、ほんのちょっとだけ(チラッと)ごく簡単に見てみたいと思います。^_^

『養老令』の規定

養老令ようろうりょう』(西暦757年施行とされています)の中に収められている『営繕令ようぜんりょう』の「第宅ていたくのくだり」には、

【原文】
凡私第宅 皆不得起楼閣 臨視人家

【読み下し】
およわたくし第宅ていたくは、皆楼閣ろうかくおこして人家じんかを臨みることを得ざれ。

【意味】
個人の住宅については、みな周りの人の家を見おろすような楼閣ろうかく(2階以上の建物)を建ててはならない。

とあります。これを読むと平城京は、整然と区画された京域内に目立つような背の高い建物はなく(寺院などは除く)ほぼ高さをそろえた街並みが広がっていたと思われます。空が広くて、明るく整然とした街並みの様子が想像できますね。^_^


恵美押勝(藤原仲麻呂)の暴挙

ところが、上記『養老令ようろうりょう』施行から20年後の西暦777(宝亀八)年に、当時太政大臣だじょうだいじんだった恵美押勝えみのおしかつ(藤原仲麻呂の別名)は、こんな事をやらかしてしまいます。(>_<)

『続日本紀』(宝亀八年九月丙寅条)より

【原文】
太師押勝起宅於楊梅宮南 東西構楼 高臨内裏 南面之門便以為櫓 人士側目 稍有不臣之譏

【読み下し】
太師たいし押勝おしかつ、宅を楊梅宮やまもものみやの南にて、東西に楼を構え、高く内裏だいりに臨み、南面の門を便りに以てやぐらと為す。人士じんし目をそばめて、ようやく不臣のそしり有り。

【意味】
太師(太政大臣)の恵美押勝(藤原仲麻呂)は、楊梅宮ようばいきゅうの南側に自宅を建てて、その自宅の敷地内の東西に楼閣を建てた。その楼閣は背が高くて、天皇がおられる内裏だいりを上から見おろすような建物だった。南面の門はやぐらとした。人々はこの恵美押勝の邸宅を白い目で見て「天皇の臣下としてあるまじき行為である」と非難する者もいた。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった恵美押勝(藤原仲麻呂)であっても、内裏にいらっしゃる天皇を見おすような建物を建てれば、そら大騒ぎになり非難されるでしょうね。^^;

恵美押勝(藤原仲麻呂)はその後、吉備真備きびのまきびらによって討伐されます(藤原仲麻呂の乱)。吉備真備さんは、よくやったと思います。^_^


【おもな参考資料】
◎国史大系版『続日本紀』(前・後編)吉川弘文館 1971年
◎木村徳国「七・八世紀におけるタカドノ・タカヤの建築的イメージ」日本建築学会論文報告集242 1976年
◎『平城京左京四条二坊十五坪発掘報告(藤原仲麻呂 田村第推定地の調査)』奈良国立文化財研究所 1985年
◎木村徳国『上代語にもとづく日本建築史の研究』中央公論美術 1988年
◎井上光貞/関晃/土田直鎮/青木和夫 校注『律令』日本思想史大系(岩波書店)1994年
◎服部一隆「養老令と天聖令の概要比較」古代学研究所紀要15(明治大学)2010年
◎佐藤信『古代史講義 【宮都編】』ちくま新書 2018年

©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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