能力主義と自己啓発に振り回される、私たちのための読書
学力、女子力、コミュ力、論理的思考力、デザイン思考力、リーダーシップ……。
私たちの社会には「〇〇力」が溢れていて、それらを向上することが大事!とされています。
でも、こんなにあったら疲れちゃいませんか? そもそもコミュ力って何なんでしょう。
今月のテーマは「能力」。私たちに重くのしかかってくる謎のワードを理解するための3冊を紹介します。
勅使河原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)
「すごいやつ」「ダメなやつ」
私たちは自身や他人を「能力」で評価する。そして、何かミスがあれば個人の能力不足として処理し、「社会の求める能力」を手にいれる努力を強いられる。
家柄で決める/性別で決めるといった前近代的なあり方と比較して、「能力で決めます」と言われると私たちは納得してしまうけれど、この「能力」と呼ばれているものは、実は非常に曖昧である。
人々の「能力」に基づいて職業や収入が決定されるとする社会を「能力主義(メリトクラシー meritcracy)」と呼ぶ。
「merit」は「功績」や「実績」という意味だ。
学歴や前職など、これまでやってきた事の評価が良い人間は、今後もきっと良い成果を出す「能力」を持っている、とされる。
本当だろうか。
人材開発業界はこれまで、社員の「能力」を把握することで、より効率的で精度の高い人事評価及び企業の業績向上に貢献できる社員を見極められるとしてきた。
そして、能力開発市場を開拓してきた。
筆者の勅使河原さんは、その人材開発業界のご出身。
でも、決して他人事のように批判するのではなく、自身を振り返りながら、バトンを次世代に託そうとする意思がある。
中村高康『暴走する能力主義』(筑摩書房)
教育学で繰り返されてきたのは、「知識偏重の詰め込み式教育をやめよう」「学力以外の新しい能力を問い直し、育てるべきだ」論である。
実は、この問いは100年近く繰り返されている。
チームワークとか、コミュニケーション能力とか、自分の力で考えて解決する能力といったものは、決して画期的で斬新で前時代を覆すような「新しい能力」などではない。
戦前からずっと擦り続けられている、能力論の十八番である。
では、なぜ同じ議論が繰り返されるのか。
もののずばり、「能力」は正確に測ることができない。
例えば「コミュ力」はどうすれば計測できるのだろうか。制限時間内に街の人に声をかける人数でも数えれば分かるのだろうか。
測ることができないのだから、把握しようもなく、何か問題があるたびに「〇〇力が足りていない」と指摘できる。
これでは穴の空いたバケツと同じだ。
中村さんは、協調性、問題解決能力といった「新しい能力」自体は実はそれほど求められておらず、「『新しい能力』を求めないといけない」という議論そのものが渇望されているのではないか、と指摘する。
では、なぜこのような議論への渇望が生じるのか、中村さんが非常に丁寧に議論を積み上げてくれている。
マーク・クーケルバーク『自己啓発の罠』(青土社)
古代ギリシアの哲学者プラトンの有名な格言「汝自身を知れ」にも見られるように、自己啓発は長い歴史をもった文化である。そして、現代においては非常に大きな産業でもある。
人生100年時代といわれ、高齢になっても働き続けること、常に学び続け知識や価値観をアップデートするよう要求される現代において、自己啓発はもはや選択肢ではなく強制となった。
自ら学ばない者は「怠け者」とみなされる。
そして、そこにデジタルテクノロジーが絡んでくる。
ポッドキャスト、動画、アプリ、ソーシャルメディア、Webサービス、そしてヘルステックである。メンタルヘルスも当然、この中に含まれる。
デジタル技術は人々を観測し、数値化し、データとして処理してステータスを管理し、1日でもサボればメッセージを飛ばす。
自己啓発テクノロジーは、いつの間にか私たちに自立ではなく他律的な訓練を提供するようになっている。
著者のクーケルバークは、決して自己啓発そのものを否定しない。自分自身をより良いものにしたいと望むことは、人間の自然な感情だ。
その上で、これまで「能力」について散々な側面を見てきた私たちに重要な指摘をしてくれる。
それは、「私」というものは、一人では実は成立しないということだ。
私たち人間は社会的な動物であり、「自己」はかなりの部分が他者の存在によって成立している。
例えば「あなたは優しい人だ」という評価は、優しさを向ける他人がいないとそもそも成立しない。
「私」というものが現れている時は、他者と交流しているか、出来事に対応している時である。
自分の内面だけを見つめても、そこには何もないことが多い。
自分自身を良くしたいと思う時には、まずは他者との関係のあり方から見直してみるのはいかがだろうか。