大人になるということ
私は東京に出てきてからフットワークが軽くなった。
カレンダーに予定がないと焦るし、一日家から出なかった日は夜になって「今日は何もしなかった...」と落ち込んだり、用もないのに早朝に起きて散歩したりしてしまう。
悪いことではない。むしろ、たくさんの機会を手にできるし、動くから健康にもなる。
でも、どこか自分軸を失ってしまったような気がしている。高校時代、実家に住んでいたときはこのnoteも更新できたと思うけれど、今は自分らしい文章を書けるかどうか、自信を失ってしまった。
人というものは、成長するにつれてどんどん自分自身に失望していく。
小学校では私は一番ピアノが上手だったし、成績もよく、先生からの印象もおそらく一番よかった。
中学校に上がると圧倒的にかわいい子や人から気にいられる子がいたり、恋愛とかいうものに価値観を奪われて、自分は見た目がずば抜けて良いわけではないし、女性にしては珍しい高身長で優等生タイプで、なにもかもが自分にはかわいすぎるような気がしていた。
高校に上がると、成績がよい子、まじめに毎日取り組める子、文武両道で運動部に入りながらも私より成績がいい子など、おそらく私が怠惰だからなのにいろんな人を羨ましがっていた。
大学に上がって上京したら目からうろこが落ちた気がした。
周りの子たちは家柄が良かったり家がお金持ちだったりして、自分が今まで頑張っていたのは実は二部リーグで、本当の戦いには参加すらできていなかったんだと思った。自費でポンポン留学したり、アルバイトをせずサークルなどにいそしんだりしている学生たちを見て、自分は今までとても恵まれていると思っていたし今もそれは変わらないが、もっと恵まれている人たちがわんさかいるということに気づき、無気力になった。
大学・上京のときは、どうやったらこのクライシスを乗り越えられるかわからなくなってしまった。
暇になると考え込んでしまうから、予定を詰めて大学の勉強を頑張るうちにどうにか最近ようやくあきらめることができたようだ。
こういう失望を乗り越えるためにはやっぱり努力しかないんだと今は思う。どんなに疲れていても寝る前に一問解く、一ページ読む、みたいなことが大切だと思う。
でも正直、こんなことを言うようなバキバキの人間になるつもりはなかった。
私は美しい文章を愛で、四季の移ろいに目を向けて、ふわりふわりと生きる人間だった。自分にとって今の生活は忙しくて、もちろん自分の感性は大きく変わらないが、以前と同様には目を向けることができない。毎日タスクアプリの通知に沿って生きる生活は、他人からの評価はよくても自分の感性を裏切っている。
一方で、バキバキ人間生活にはバキバキ人間生活の楽しさもある。
例えばアルバイトだったら、仕事を覚えて一人でできることが増えたり、些細な事で業界に関われることが嬉しかったりする。
生活面では、人とは違うことをしている優越感だったり、怠惰を脱却して社会から求められる人間に近づいている実感が持てたりするのがいい。
自分自身より他人の好む人間になるのは寂しいけれど楽しいことだ。
今は周りの人に支えられて生きている。
私のすべての選択に口出ししてくるが愛してくれるちょっと過保護の母と、学費や家賃などを出してくれるのに私に一切口出ししない父、怠惰だけれど性格のよい弟からなる家族は、今の私とは価値観が異なるものの結局は私を応援してくれているのだろう。
また、ありがたいことに新卒の年の恋人と彼が大学生だった時に出会い、彼はいわゆるエリートの人生を歩みながらもまだ私のことをそばに置いてくれている。彼と自分を比べて悲観的な気持ちになったり寂しくなったりはするが、全体的に考えれば私は彼と一緒にいられて幸せだと思う。たとえ彼と別れたとしてもそれはそれでいい経験になるだろうし、彼といることはプラスになると思う。
私はもうこんな人間になってしまったが、きっとこれから大学を卒業するまではこのバキバキ人間のまま生きるしかないだろう。それは私の特性でもあるし、大学生というペルソナや就職活動スケジュールによるものでもあると思う。
とりあえず引き続き生きることに全力を尽くしていくつもりである。
死ななければいいや〜。