「我々は二人で東京の街をあてもなく歩き続けた。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに、我々は脇目も振らず歩いた」 ノルウェイの森
今日は「ノルウェイの森」について書きたい。
そう、あの有名な「ノルウェイの森」(村上春樹さん著)だ。
あらすじは、ネットで探せばいくらでもあるので割愛して、以下、3つの点でこの物語は大作と言える。
物語を読んだことがある方は、ぜひ最後まで一読していただきたい。
(そしてコメントを残していただけたら最高に嬉しい。)
①普遍的なテーマを物語で表現したこと
いくつものテーマが多層的に絡み合っている。愛、生と死、善と悪。
②巧みな比喩表現
人物の感情を、外界の情景や状態で表現することがとても上手。
この小説が好きな人は、絶対に、ミランクンデラの「存在の耐えられない軽さ」好きだと思う。
③「死」が物語の中に、終始、漂っていること
例えば、伊坂幸太郎さんの物語の中で起こる死は、どこか一過性があったり、物語の展開の道具のように描かれている時があるように思う。
でも、ここで描かれる死は決定的にちがう。
物語全体が、その最重要メッセージを捉えている。
生は死の対局としてではなく、その一部として存在している。
そして、当時の不安定な時代背景や、主人公の若さ。これらが相まって、全体的に曖昧な危うさを感じる。
微かに揺れる人間の危うさを物語で表現してることが、もう感服。
概要はこの程度にして、私がこの小説を読んで感じたことは大きく3つある。
順に説明したい。
<愛について 〜対照的な二人を愛したワタナベ〜>
この小説は、愛するということの多くの意味を教えてくれた。
直子と緑は、構図としては似たような状況にあった女性だ。
ともに、両親を亡くした(直子の両親は事故死、緑は病死)。
そして、どちらも姉がいる(直子の姉は自殺したが)。
ただ、直子と緑の性格は異なっている。
ペニスの握り方からして、全く違うのだ。
生を受け入れている緑と、生を受け入れることができなかった直子。
そんな2人を、ワタナベは、同時に、別の形で愛した。
キヅキの死でつながれた直子との絆は、少しいびつだ。
四谷で再開してから、二人は共通の傷を癒そうと歩き始める。
そして、誕生日のセックス、直子の失踪と死。
ワタナベは直子が生きている間、手紙を書き続けた、そして、18年経った今でも思い出し続けている。
これは、愛だ。
一方、直子の失踪後、緑と出会い、直子との関係と対照的な流れで、ワタナベは緑と関係を深めていく。
緑は、不思議な魅力がある女性だと思う。
気付いた時には、緑の存在が大きくなっていた。
緑と会えなかった期間、ワタナベは彼女の不在を苦しんだ。
最後のシーンで、電話をしながら緑の名を叫び彼女を求め続けた。
これも愛だ。
思うに、愛するということは、とても主観的で、多義的なのだ。
ワタナベが本当に愛していたのはどちらだ?とか、
二人の女性を愛することはできないとか、そういう話はしたくないと思う。
物語は終始ワタナベの視点一点で描かれており、彼が愛していると確信している以上、その愛を疑うことになんの意味があるのだろう。
20歳という若造ではあるものの、その瞬間の愛は本物に違いない。そう思う。
<直子20歳の誕生日〜ワタナベと直子は夜を共にすべきだったのか?〜>
あのセックスは物語の転換点といえる。
いろんな状況が重なり、直子の処女は必然的に奪われてしまう。
ワタナベは、泣き止まない直子の心を沈めるため、あのセックスは「必然的」だったと振り返る。
ただ、私は、ワタナベはセックスすべきでなかったと思う。
直子は繊細かつ複雑な女性だ。
キヅキの死を受けて、言葉を発することすら難しいほど、彼女の心は半分死んでいた。
19歳のワタナベは、寮での生活に影響されていた。
合理主義者永沢、朝から晩までマスターベーションする輩、政治思想に狂うファシスト、それは俗の世界の象徴といえる場所だった。
ワタナベは永沢から女遊びを教わった。
空虚感を覚えながらも、とっかえひっかえセックスして遊びふけった。
そう、ワタナベは、俗に染まっていたのだ。
そして、あの日、ワタナベと直子はセックスする。
もう一度言うが、私は、セックスすべきではなかったと思う。
それは、繊細な直子を混乱させたから。
確かに、直子のあそこは濡れていた、そして、ワタナベはそれを「求めていた」と表現した。
でも、思い違いの可能性もある。
直子は単にひどいショック状態にあっただけかもしれない。(女性はパニックに陥った時に濡れる場合がある。)
キヅキの原因不明の突然死から1年。
3歳から15年間一緒に過ごした半身のようなパートナーを失った傷は、1年で癒えるはずない。
誕生日というキズキとの思い出が溢れている日。
さらに、気持ちを高ぶらせるかのように降り続ける雨。
あの日のセックスまでの過程にはいろんな要素が構成されていると思う。
翌日からワタナベは直子と連絡が取れなくなり、直子はあみ寮へと移り住んでしまう。
仮定法過去の話になってしまうが、もしワタナベが大学1年生から老夫婦の家で生活をしていたら、あの日二人はセックスしなかったと思う。
物語の後半になってワタナベが移り住む、あの吉祥寺の家だ。
大学という雑多な世界から離れているその家は、庭の緑が美しく、野良猫たちの憩いの場だった。
直子の死は止められなかったとしても、二人の物語は違う形になっていたはず。
<あみ寮での生活 〜レイコへの違和感〜>
私は、読み進めていくうちに、レイコという人間への不信感がよぎるようになった。
直子の生には、ワタナベが必要だった。
何も考えずに東京の街を歩く、幼い頃に父親としていた登山のように、ただ一歩を踏みしめる、積み重ねる、そういう生の実感が必要だった。
ただ、レイコという人物が登場してから、直子とワタナベの間にレイコというオブザーバー、仲介者が入ってしまった。
あみ寮へ移ったことで、物理的にワタナベと離れてしまっただけでなく、レイコの存在のせいで、精神面でも直接的な交わりが薄れてしまったのだ。
ワタナベがあみ寮にいる間は、直子とは二人きりになれずレイコが必ずその場にいなければならないという謎ルール。
二人の全ての文通に介入するレイコの校閲。(笑)
ワタナベが緑への愛をレイコに打ち明けてからすぐに起こった直子の自殺。
あみ寮へ移ってから、初めて受け取る直子からの手紙(もちろんこの手紙もレイコの校閲が入っているだろう)中で、直子は、自分を「不完全な人間」と認めていた。
私は、直子自身は、不完全な人間なんかじゃないと思う。
周りの助けが必要だった。
大人の助けとワタナベの存在が必要だった。
私の感想だが、レイコは善のお面をかぶった悪の人間だと思う。
レイコから感じられる違和感は、3つに集約される。
①あみ寮という独特な世界で7年間も過ごしている正常者。
あみ寮は、特殊な場所だ。
いきなり吠え出す門番、怪しい医療知識を話し続ける先生、妙に考え込みながらテニスをする療養者。
そこで暮らす人たちは、先生でさえ、どこか正常値から外れたような人間ばかり。
外の世界へ行くことは日常的に制限されているし、あみ寮の中でも小さな身内感覚グループ内でしか関わり合いを持たない。
あれほど変わった場所に7年もいる人間が、初めて会うワタナベと、とても普通に会話し、さらに彼の人生について正論口調で諭したりする。
ワタナベは、レイコの第一印象を「一目で彼女に好感を持った」と描写していたが、その際立つ好感度も少し怖く感じてしまう。
また、レイコは、18年前時の自分の話を、まるで用意していたかのようにワタナベに打ち明ける。
「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。」永沢が残した言葉。
教え子の裏切りと家族との別れという彼女にとって一番繊細な部分を隠すことなく話すレイコは、過去の苦悩を可愛がっているようにも読み取れる。
そもそもレイコの話自体が作り話の可能性だって十分ありえると思っている。
話はそれるが、あるネットの考察記事で、永沢を悪の象徴だと断言していたものがあったが、私にはそう思えなかった。
永沢は、単なる合理主義者だ。
確かに、ハツミという芯があり賢くおおらかな彼女がいながらも、彼は、複数の女性と一夜限りの関係を持ち続けて、ハツミを傷つけた。
ただ、その事実を彼女に隠していたわけではないし、なんなら嫌なら離れてもいいと言っていた。
結婚に関しても、俺は結婚しないと公言していた。
悪をどう定義するのかにもよるが、私には永沢が、悪の象徴には思えない。
②次に、直子の異常なほどのレイコへの信頼と依存
キヅキの死以降、関西から東京へ移り、友人も作らずに、心を閉ざしていた直子。
そんな直子が、3~4ヶ月しか過ごしていないにも関わらず、裸で抱き合うほど、レイコに自分の身と心を預けてしまう。
医学療法師の免許さえ持っていないレイコって何者なの?
もしかしたらレイコは、人の心を支配することに長けている人物かもしれない。
(ちなみに、このレイコの能力は、ワタナベの吉祥寺の家を訪問した際にも、発揮される。
ちょっと大家に挨拶しに行くといって、20分も帰ってこないレイコ。その後、夕食時にすき焼き用鍋とガスコンロが必要になった時、大家からささっとそれら一式を借りてくるほど、彼らの気を奪ったレイコ。)
③最後に、直子の死後の不可解なセックス
直子が死んで、1-2ヶ月ほど経ってから、フラッと東京に出てくるレイコ。
直子が死ぬ前に一緒に時間を過ごした相手はレイコだ。
妹のように可愛がっていた直子が亡くなってすぐ、7年もいたあみ寮を足軽に出て、どういう気持ちでワタナベとセックスしたの?
この頃には、ワタナベも、完全にレイコを信頼しきっていたように思う。
おそらく、レイコは、ワタナベをカモにして東京で生活することができるほど、彼の心を奪っていたが、それをしなかった。
なぜなら緑がいたから。
緑は、鋭い洞察力と常識や権威に屈しない勇気がある子だと思う。
それは、女子におにぎりを作らせるような大学の政治集会をインチキだとして辞めたり、人の家にズケズケ入ってくる税務職員への反抗心が描写されている通りだ。
そして、両親の重い闘病生活を支えながらも、決して周囲に同情心を煽らない。そんな強さを緑は持っている。
きっと緑と対面した日には、レイコの善の皮が剥がされてしまうのではないかと思うし、レイコ本人も感じていたはずだ。
以上が、レイコを悪と考える理由だが、これは一つの読み方であって、おそらく偏っているように感じる人もいると思う。
(多くの方から意見をもらえたら嬉しいです。)
長くなったが、終わり。
村上春樹さんに届けーー!!
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