「民主主義とは何か/宇野重規」を読んで思い浮かんだこと
最近(2024年10月27日)総選挙があったので、あらためて民主主義の解説書を読んで勉強し直したいと思って読みました。
注意
これは要約でも意訳でもないで、そういった向きのものを求めてる方は時間を無駄にします。
ただ読んでて思い浮かんだことを、徒然なるままにダラダラと書いただけのものです。
・民主主義は、王や貴族のような特権階級を認めず、すべての人間を平等な個人とみなすものである。
そうか。
・多数決が正しいとは言えないが、"すべての人間を平等な個人とみなす"ものである限り、現状ではすべての人間に1票ずつ与え、多数決で意思決定するしかない。
(殺し合いをするよりはマシだろう)
・一方で、"すべての人間を平等な個人とみなす"ものである限り、少数派を切り捨てるのは間違っているという意見もまた正しい。
・トクヴィルが警鐘を鳴らした通り、多数派の暴政が少数派の自由や権利を奪ったり抑圧することは許されない。それに歯止めをかけてこその民主主義である。
・現代において民主主義国家であるか否かを判断する最低基準は、"公正な選挙の有無"である。
▲民主主義は英語でデモクラシーだが、その語源は古代ギリシア語で「人々の力、支配」を意味する語である。
民主主義をあらためて考え直す際、全体を貫くキーワードとなるのは【参加と責任のシステム】である。
人々が自分たちの社会の問題解決に参加すること、それを通じて政治権力の責任を厳しく問い直すこと。
それが民主主義にとって不可欠の要素である。
私見
◆現代の民主主義国家において不思議なのは、三権のうち"司法"を行う裁判官は専門知識(法学)を問う試験を経て選抜をする過程があるのに、同等以上に重要である"立法"の執行者(議員)は専門知識(政治学)を問う試験を経ず、これまた政治学の基礎すら無い有象無象の国民に選挙で選抜させているということだ。
せめて選挙権は、政治学の基礎と人物的にインテグリティ(誠実/高潔)のあることを確かめるための"資格試験"(選挙権取得試験)のようなものを課して選別してから与えるべきではないだろうか?
例えば、小中高校で必須単位に組み込み単位未取得のまま義務教育(または高卒資格?)を終えないようにする。
さらに選挙の前に必ず"選挙権獲得全国テスト"を実施して、成績が全国民の上位51%以上の人のみが選挙権と被選挙権を得るようにする。(または絶対評価?)
◆民主政治の要素
①公共的な議論によって意思決定すること:
実力による強制や金銭的な買収や議論を欠いた妥協ではなく、徹底した議論でなければならず、また密室やごく一部の人だけでの議論ではなく公共的な議論を経た意思決定でなければならない。
②市民は意思決定されたことについて自発的に服従していること:
先の①の手続きによって意思決定されたことは、強制ではなく"納得"して"自発的"に従わなければならない。
だからこそ、納得して従うためには①をしっかり実施しなければならない。
私見
・上記①は多数派の民意を可能な限り正確に把握し、その中で何を実行策として選択するか?という過程であり、②はだからこそ市民は納得して従えるのだ、という結果である。
◆であるならば、成田悠輔 著「22世紀の民主主義」の中で述べられるとおり、現代のデバイスで取れる個人のデータから各個人の民意を適切なかたちで吸い上げて、現在〜中長期の観点で重要度の高い事案を選択し、それについてベストな意思決定を下せる納得感の高いアルゴリズムを組んだ方が、より本来的な民主主義の定義に則っているのではないかと思える。
・ソロンの改革
①債務の取り消し。
②債務奴隷の解放。
③自らの身体を抵当とする借財の禁止。
④市民の司法参加を保証する"民衆裁判所"の基礎を築く。
⑤自己負担で武装する自由市民の政治参加を強化。
(平民層からも国政の中枢へ参加する道が開かれた)
私見
◆やはり「どのような人に参政権を与えるのか?」ということが重要。
古代ギリシア→自己負担で武装し国防に参加している自由市民。
現代→政治学や政治史の基礎を修め、長期視点で国民全体(これから生まれてくる世代のことや自分より経済的に恵まれていない社会階層も含めて)のことを考えることができる人物であるべきか?
私見
◆現代の民主主義も、アテナイほどの厳しい責任追求をすることは無いまでも、せめて中長期での"評価/査定"の制度はあった方が良いのではないか?
例えば数年に一度、過去の首相や大臣を評価し、加点によって年金的な報酬の査定額を変動させたり(マイナス査定や過去に渡した報酬の返還もあり)する。
そのかわり任期中の報酬は低く抑える。
◆民主主義への批判
①民主主義は運用も実践も難易度が高く、最盛期を迎えてペリクレスの陶片追放までと短命だった。
それ以降は衆愚政治が続いて廃れた。
②デマゴーグが現れると政治的分断やポピュリズムが起こる。
③どの党派が政権を握ったとしても他の党派の利害まで考慮できないことが多く、一枚岩で行動できない。
私見
★この本では民主主義の要件については語っているが、【民主主義の目的】については語ってないように見える。(自明のことと考えているためか)
民主主義の目的とは、"衆知を集めて質の高い政治を行うこと"と、"あらゆる社会的階層にとって偏りのないベターな政策を検討し実行出来ること"ではないだろうか?(けっして"衆愚"ではなく、"特定の社会的階層"ではない)
だとするなら、①"衆知を集め、衆愚を排除する仕組み"の両輪が揃っていること、また②"あらゆる社会的階層から公平に衆知を集めること"ができて初めて民主主義の目的が達成されるはずだ。
(けっして"衆愚"まで吸い上げてはならない!)
私見
▲哲人王アルゴリズム:
道徳観、政治的基礎知識、長期視点、公共性、知性、地域や経済格差を俯瞰できる視野の広さ、これらを測れるテストを作成して全国民に受験させ、【哲人王スコア】が高い人を基に【哲人王アルゴリズム】を開発し、そのアルゴリズムが【全国民無意識ビッグデータ】を元に各政策分野ごとに政策立案し、意思決定する。
ただし哲人王スコア上位者が政策執行前に拒否権と修正権を行使することができる。
(官僚の仕事は、決定された政策をただ実行運用するだけ)
私見
・産業革命によって平民の中からブルジョワという新しい階級が発生したことで平民の政治参加が可能になった。
(古代ギリシアにおいて、自費で武装し戦争参加できる"平民"が民会で勢力を伸ばしたように)
▲持ち越された民主主義の課題。
権力を持つ者へ責任追及する機会が適切に与えられているか。その点に課題が残っている。
・トクヴィルの格言
「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」(『アメリカのデモクラシー』序文)
「平等と専制が結合することになれば、心情と知性の一般的水準は低下の一途をたどるだろう」
「生きて活動し生産するものは全て、どんなに新しく見えても、新しさの背後には古い起源を有しているものである」
私見
◆ルソーの言う【一般意思】は、すべての国民から吸い上げるだけだとかなりの"衆愚"が含有されてしまうと思う。それを避けるためには、
①全国民の中から"高い道徳と知性と長期視点"を併せ持つ上位何割かの人々からのみ一般意志を抽出する。
(道徳性、知性、長期視点を測るテストを全国民に実施して上位に入った者のみに選挙権と被選挙権を与える)
②全国民に"高い道徳と知性と長期視点"を身につけさせる。
のいずれかが必要と思われる。
しかし②は時間を要するので、まずは①から始めることになるのではないか。
私見
◆道徳性、知性、長期視点を測るテストの結果から選挙権/被選挙権の獲得者を選出する際、男女、老若、年収の高低、健常者と障害者(社会的マジョリティ/マイノリティ)、都市部と過疎部、などが数的に1対1で均等になるよう配慮しなければならない。
その配慮がされてはじめて"多数者による少数者への権利の侵害"が起こらない民主主義が可能となる。
※人口の維持と少子化は避けられなければならないので、"選挙権の無い未成年の子を持つ親"はその子の分の投票権も付与される仕組みなど必要かもしれない。
私見
・ミルの言うように現時点ではベターに見える事案であってもポジ/ネガ両面を洗い出し、可決済みのものでも「こうなったらその時点で別アプローチへの切り替えを検討しよう」という見直しルールをセットで設定すると良い。
(現在まで続く憲法問題も、このルールがあれば避けられたのではないか?)
▲ミルは自由を認めることの社会的意義を述べたが、(自由と責任とはセットなので)自由な社会を推進しても良いのは"自らを律すること"のできる自律した文明国のみであると述べた。
私見
▲そういった意味では、哲人王テストや哲人王アルゴリズムにも長期視点だけではなく自らの欲望を律することができる"自律心"や"無私の心"を考慮した設計を取り入れるべきかもしれない。
(長期的な深謀遠慮で私服を肥やす計画を練ることができる集団が出ないとも限らないので)
私見
▲哲人王テストも大学入試のように2段階に分けるのが最善かもしれない。
①選挙権/被選挙権を獲得する資格を判定するためのテスト
(スコアの高低で選抜される基礎知識を問うテスト)
②上記①を通過した人だけに課される(財務、外交、防衛、法律、教育など、専門性を問うテスト。
(①のテストでいずれの分野が得意だったか?ということと、本人の選択で2分野に絞って受けさせ、その分野で上位だった人だけが実際に政治に関わる。受験した2分野とも上位の成績であればメインとサブを選んで掛け持ちもOK)
私見
・代議制を推奨する人々の主張を総合してみると、いずれも、
①民主主義の優れた点を活かそうと思えば、直接民主主義でなければならず、それは市町村単位の社会でしか実現不可能である。
②代議制ではその社会成員の中から、人格、知性ともに優れた人物が選ばれるはずなので衆愚政治が避けられるはずである。
という前提で主張されているようだ。
しかし現代の代議制を見ても、知性はともかく、人格を備えた人や、100年先の自国のことを考えて政治を行なっている者は滅多に見られないように思う。
私見
・歴史上の賢王(イスラエルのソロモン、唐の太宗などは晩年に失敗を犯した)を一人ひとり見ていくと、ヒトが政治権力を握る場合にはどうしても【邪悪な利益(シニスター インタレスト)】の影響を免れないと思う。
だからこそ哲人王の資質をもつ人々を選出するだけでは不十分で、それらの人の資質を落とし込んだ哲人王アルゴリズムが必要だと考える。
(人間は拒否権とチェック機能だけを担当する)
私見
・2022年後半に出版された「22世紀の民主主義」/成田悠輔 著でも述べているとおり、民主主義陣営は人命と経済どちらにも振り切る意思決定ができず、全体主義や権威主義の国と比較して人命も経済もともに大幅に損なう結果となった。
(民主主義陣営のそのような失敗を目にして権威主義的な政治へ舵を切った国もいくつか見られるようになった)
私見
民主主義とは"民が国家の主である"というのが主眼だ。
それは国家の主としての民の意志、つまり"民意が正しく反映された政治"が行われているということである。
はたして現状の民主主義の手法は民意を正しく反映できる仕組みになっているだろうか?
従来は良い手段が無かったのでベターな手段として"選挙"による代議制(間接民主主義)が多くの国で選択されているが、2020年代ではより良く民意を吸い上げ、より良い意思決定をするための科学や技術が生まれている。
それを使わないのは民主主義の怠慢ではないだろうか。