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谷川さんを偲んで

今朝の訃報に、はっと息を呑みはしたものの、
特に魂消るようなことはなく、どこか自然に受け止められた。
おそらくそれは、谷川さんがご自身の人生を「生ききった」こと、
そして自らも、死を自然に受け入れられたことが、
大地から足の裏を伝わって……きたからかもしれない。

と、大仰に凝った書き出しで始めてはみたが、
私はこの手の「追悼文」を書くには、やや資格が足りないであろう。
というのも私は、彼の詩集を持っているとか、特別好きな作品があるとか、
活動をしっかり追っていたとか、そういうのには当てはまらないからだ。
だから、あんまり知ったような、こねくり回したことを書くのは、
ご本人にもファンの方々にも失礼だと思うので、
今回の記事は「ちょっと長めのツイート」程度にして、
私なりに気持ちをつらつら書いてみたいと思う。

この気持ちはなんだろう

谷川さんの詩といえば、必ずひとつは国語の教科書に載っているといっても過言ではない。
特に印象深いのが、小見出しに引用した「春に」。確か中学校の教科書に載っていた。
私は合唱部だったし、クラス対抗の合唱大会が年に2度ある中学校に通っていたので、「春に」は合唱曲としても知っている。

また、先輩のクラスでは「二十億光年の孤独」が歌われた。
ネリリ キルル ハララ……
そして最後はくしゃみをする。
この独特な歌詞は、数度聞いただけで耳に残り、心にも残った。
この頃から詩作に興味があったので、図書館で原典の詩を探してみたが、残念ながら見当たらなかった。

そして、中学3年生時。私のクラスは「信じる」を選んだ。
何度も何度も練習し、歌ったので、今も歌詞を諳んじることが出来る。

信じることに 理由はいらない
信じることは 生きる源

もう若くいられない年になっても、時折思い出して、
そして忘れてはいけないフレーズが、
いくつも詰まっている。

翻訳者としての「鑑」

さて、谷川さんのもうひとつの顔が、外国文学の翻訳者だ。
特に「PEANUTS(スヌーピー)」は、欠かすことの出来ない代表作だろう。

単にキャラクターとしてスヌーピーが好きだった。
高校の図書館に、「PEANUTS全集」がいくつか置いてあったので、しばらく読み漁っていた。そのうちに、そこで描かれるスヌーピーたちの奥深い世界観の虜となった。
同時期から、私の将来の夢は翻訳家になることで、英語と日本語の対訳についても素人ながらに研究をしていたのだが、「PEANUTS全集」はその最たる例だ。
つまり、「PEANUTSファン」と「翻訳家志望」の2つの観点から、全集をすみずみまで読んでいた。

「PEANUTS」を取り上げた雑誌に、谷川さんのものではない翻訳が載っていたことがある。これは好みの問題で、どちらに優劣があるものでもないのだが、私は生意気ながら、「やっぱり谷川さんの訳には敵わないな」と思っていた。
こういう「粋な」翻訳が出来る人になろう、と、志したものである。

その思いを抱きながら、津田塾大学へ進学した、ある日の事。
学校が、授業の一環で定期的に開催する「講演会」に、なんと谷川さんがゲストスピーカーとして来校されることになった。
もともとその授業を履修していた私は、地元から母を呼び寄せ、わくわくした面持ちで、講堂の前の方に座った。

ここで教わったことが私の人生に大きく影響を与えた……
と書きたいところだが、
大変残念ながら、私はこの講演会で谷川さんがどんな話をされたのか、ほとんど思い出すことが出来ない。10年も前のことなので許してほしい気持ちもあるが、どういうわけか、80分しっかり耳を傾け、ノートを取っていたのに、肝心なことが何も思い出せないのだ。
実に自分の頭の記憶力を恥じるところである。
高校時代から「PEANUTS」を通して憧れていた谷川さんご本人に会える!!と、舞い上がっていたことも理由のひとつかもしれない。

しかし、そんな中でも、唯一ハッキリと、ご本人の声まで覚えていることがある。

「私はスヌーピーを、子供向けだと思っていません。」

講演会の最後に、質疑応答の時間が設けられた。
かねがね、「PEANUTS」の翻訳のミソについて聞いてみたかった私は、軽い気持ちで挙手をした。
そしたら、なんと、当てられてしまったのだ。

緊張でガッチガチになり、冷たい手でマイクを握りながら、やや早口で質問を投げかけた。聞き取りにくかったら申し訳ない、と今ここで謝りたい。
内容は確か……
「PEANUTSを翻訳する際に心がけているものは何か。スヌーピーは子供からも人気のキャラクターだが、語られるセリフは実に哲学的で、深みがある。これを、子供たちにも分かりやすく翻訳するには、どうしていらっしゃいますか」とこんな感じだったと思う。
それに対して、返ってきたお返事が、さっきの一文だ。

その一文の続きが、これまた残念なことに、思い出せないのだが……
聞くのに全エネルギーを使ってしまい、答えが返ってきたことにおどろき、ノートを取るのに必死だったのだろう。せめてその時のルーズリーフが見つかりますように。
それでも、この一文に、谷川さんが「PEANUTS」の翻訳にかける思いが詰まっているような気がした。

「PEANUTS」は確かに「漫画」だし、キャラクターは小さな子供たちでも知っている作品だが、
谷川さんは、決して「子供だまし」や、読者を「子ども扱い」することは、なかったのだろう。
描かれている世界観に真摯に向き合い、哲学と皮肉とウィットに富んだ言葉たちを、ご自身の「センス・オブ・ユーモア」でもって、見事に、日本の言葉たちへと翻らせてみせる。
これはきっと「PEANUTS」だけでなく、谷川さんの他の訳文、
あるいは、あらゆる翻訳活動に通ずる精神なのだと感じる。

「私はスヌーピーを、子供向けだと思っていません。」

この一文は、忘れずに私の中に刻まれ続けるだろう。

染み渡っていくもの

「春に」や「PEANUTS」の他にも、教科書に掲載された谷川さんの詩や、翻訳、あるいは絵本は、いたるところにたくさんある。
もしかしたら、それが谷川さん作だと気づかずに読んでいるものも多いかもしれない。
と思って今検索したら「スイミー」を始めとするレオ・レオニ作品も手がけていらっしゃった。
あの「ぼくが めに なろう」か。脱帽。

何が言いたいかというと、それほどまでに自然に、当たり前のように、知らず知らずのうちに、
私たちは谷川さんが紡いできた言葉に触れていたし、いつの間にか心の血肉としていたのである。

今までも、そしてこれからも、
谷川さんがのこした「ことば」の、
目に見えないエネルギーの流れが
雨のように染み渡り、世界のすみずみに広がって、あらゆるところの人々に、
大地から足の裏を伝わって
届いた先で、ずっと永く「生きる」のだろう。


偉大なる詩人・作家・翻訳家……「言葉の人」谷川俊太郎さんの御冥福を心よりお祈り申しあげますとともに、御家族に哀悼の意を表します。
拙文ながら、私なりの「追悼」を締めくくりたいと思います。
ご清覧ありがとうございました。

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