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【違和感】三浦透子主演映画『そばかす』はアセクシャルの生きづらさを描く。セクシャリティ理解の入り口に

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恋愛・結婚は”しなければならない”のか?アセクシャルの主人公を描く映画『そばかす』が示す、生き方の多様性

とても良い映画でした。正直、観ようかどうしようか悩む感じの作品で、観ないという選択もあったのですが、本当に観て良かったなと思います。

ストーリーはかなりシンプルで、「恋愛をしたいと思ったことがない主人公・蘇畑佳純(30歳)が、母親が無理やりセッティングしたお見合いで出会った男性と関わりを持ちつつ、恋愛・結婚について考えていく」という感じです。私は、この映画を観る時点で「アセクシャル」について認識していましたが、本作で初めてその存在を知ったという方もきっといるでしょう。「アセクシャル」というのは、「他者に対して恋愛感情・性的欲求を抱かないセクシャリティ」のことです。そして佳純は、そんな「アセクシャル」のことをまったく理解しようとしない家族と共に日々過ごしています。

私がこれまでに出会ってきたセクシャルマイノリティについて

私が「アセクシャル」という単語を初めて耳にしたのは、今から15年以上も前のことです。同じ書店で働いていた友人の女性から、「私、アセクシャルなんです」と教えてもらったのが最初でした。「他者に対して恋愛感情も性的欲求も抱かない」という状態が存在するなんて想像もしなかったので、聞いた時にはかなり驚いた記憶があります。

さてその後、割と最近のことですが、別の友人女性から「私はどうもデミセクシャルみたいです」という話を聞きました。デミセクシャルというのはアセクシャルとは違って、「恋愛感情・性的欲求がまったく無い」わけではありません。ただ、ごく一部の人に対してしかそのような感覚が生まれず、ほとんどの関係性においてアセクシャルのような状態になるセクシャリティのことを指します。彼女からはそれまでも、「恋愛をしたことはあるけど、恋愛感情を抱くことがほとんどない」という話を聞いていたので、そういう状態にもちゃんと名前が存在するのだなと驚かされました。

さらにその後、トランスジェンダーだという人と知り合います。身体は男性ですが、心は女性という人です。さらに性的対象は「女性」なのだといいます。つまり「レズビアン」ということになると思うのですが、身体は男性なので、客観的には「異性愛者」に見られるというわけです。

さて、私は決して交友関係が広いタイプではありません。確かに、「変わった人間」が好きだし、そういう人と出会えるように意識してもいるつもりなので、他の人よりは「普通から外れた人」が身近に集まる可能性は高いと言えるでしょう。しかしだとしても、かなり交友関係が狭いのに、「アセクシャル」「デミセクシャル」「トランスジェンダーかつレズビアン」というセクシャリティと知り合えているのです。

何が言いたいのか。つまり私は、「そのようなセクシャルマイノリティは、私たちの身近にもっといるはずだ」と考えているのです。特にセクシャリティについては、相手からカミングアウトしてもらわなければまず知り得ません。先に挙げた3人も、周囲の人に積極的に話をしてはいないみたいです。「カミングアウトしていないけれども、実はセクシャルマイノリティだ」という人は想像以上に多いと考えていいのではないかと思います。調査によれば、日本におけるLGBTQの割合は3~10%程度だそうです。仮に3%だとしても、1クラスに1人はLGBTQがいるという計算になるでしょう。

さて私自身は、いわゆる「セクシャルマイノリティ」ではないと思います。こういう表現は適切でないと感じるのですが、「ノーマルな異性愛者」というわけです(LGBTQではない人のことを「ノーマル」と表現するのは不適切な感覚があるのですが、どうにも上手く表現しようがないですね)。ただ私は30歳になった頃ぐらいから、「恋愛は止めて、異性とは友人になろう」という風に思考を切り替えました。「恋愛感情も性的欲求もあるのですが、恋愛関係よりも友人関係の方が心地よいと感じる」というわけです。恐らく今のところ、このような性質に名前はついていないでしょう。

いずれ私のような状態にも何か名前がつき、それによって私も「セクシャルマイノリティ」に括られるかもしれません。それ自体は別にどちらでも構わないですが、私を含め、世の中には様々な人間がいるというわけです。

映画『そばかす』における、セクシャリティの描き方のスタンス

さて、内容に触れる前にまず、映画『そばかす』がセクシャリティをどのように描いているのかについての私なりの捉え方について書いておきたいと思います。先に結論を書いておくと、『そばかす』の描き方はとても良かったです。

さて、何を描くにせよ、それが「マイノリティ」「弱者」に分類されるものである場合、「ちょっと極端なんだよなぁ」と感じてしまうことがあります。「極端」という感覚は少し説明が難しいのですが、例を挙げるなら次のような感じです。

・「マイノリティに対して偏見を抱いてはいない」と示そうと意識しすぎてオーバー気味に描いてしまう
・「マイノリティの主張を伝えたい」という気持ちが強すぎて、逆にマイノリティが悪く見られるような描写になってしまう

このような感覚は、映画や小説に限らず、日常生活でも散見されるように思います。

さて、一応書いておこうと思いますが、私は別に「自分はマイノリティ代表である」みたいに考えてこんな主張をしているわけではありません。私は確かに、「気分的にはマイノリティ」だと思っているのですが、ここで言及している「マイノリティ」というのはもう少しはっきりと区分可能な存在、つまり「障害者」や「LGBTQ」などを指しているつもりでいます。あくまでも私は、「マジョリティでもマイノリティでもない立場」から、単に「マジョリティって好きになれないわー」と感じているだけなのです。「マイノリティを自認している」とか「マイノリティを代弁している」みたいなつもりではないことはご理解下さい。

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