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【病理】本田靖春が「吉展ちゃん事件」を追う。誘拐を捜査する警察のお粗末さと時代を反映する犯罪:『誘拐』

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東京オリンピック前年に起こった誘拐事件「吉展ちゃん事件」を丹念に追い、事件と時代を焙り出すノンフィクション

本書で扱われるのは、東京オリンピックを翌年に控えた1963年に発生した誘拐事件だ。後に「吉展ちゃん誘拐殺人事件」として知られるようになる。警察ですらまだ、誘拐事案への対応が明確に定まっていなかった時代の事件であり、事件そのものを巡る顛末も興味深い。

しかし著者が本書で書きたかったのは、「『吉展ちゃん誘拐殺人事件』で何が起こっていたか」に留まるものではない。その背後にどんな時代背景があったのかを、この事件を徹底的に描き出すことによって炙り出そうとしたのだ。

私たちは日々、様々な事件の報に触れる。しかし、「何が起こったのか」「犯人が逮捕されたのか」「動機は何なのか」など通り一遍の情報だけを目にして終わってしまうことがほとんどだと思う。

事件にはそれぞれ、”個性”とでも呼ぶべきものがある。報道やネットニュースでは、なかなかその”個性”は見えてこない。事件ノンフィクションとして非常に高く評価される本書から、その”個性”を感じる経験をしてみるのもいいのではないかと思う。

「犯人逮捕」は「解決」ではない

「文庫版のためのあとがき」で、著者はこんな風に書いている。

その一つの表れが、犯人逮捕を伝える際の見出しに用いられる「解決」の活字である。
なるほど犯人が挙がれば、捜査本部は一件落着とばかり祝杯を上げて解散する。しかし、それは社会全般に通じる解決を意味しはしない。
私は十六年間の新聞社勤めの大半を社会部記者として過ごした。そして、その歳月は、犯罪の二文字で片付けられる多くが、社会の暗部に根ざした病理現象であり、犯罪者というのは、しばしば社会的弱者と同義語であることを私に教えてくれた。

確かに、普通に考えれば「犯人が逮捕された」からと言って「一件落着」とは言えないだろう。犯罪に駆り立てた原因が分からないからだ。そして著者は、「犯罪」とは「社会の暗部に根ざした病理現象」だと書いている。これは、「誰しもが犯罪者になり得る」という指摘だと捉えるべきだろう。

しかし、世の中の大多数の人はそうは捉えない。「犯罪」は「個人の問題行動」であると信じたがる。その理由は明白だ。「自分は『犯罪者』になんかならない」と安心したいからである。

今は昔ほどではなくなったと思うが、ワイドショーや週刊誌などでは、罪を犯した人間の「過去」を様々に掘り返し、「『犯罪』を起こすような異常性」を見出そうとする。何故なら、そのような情報には需要があるからだ。犯罪者の過去が、視聴者や読者のものと違えば違うほど、「自分はああはならない」と安心していられる。「やっぱり犯罪者は、犯罪を起こすような素質を生まれながらに持っていたんだ」と信じていられる。そうして「自分は犯罪と無縁でいられるはずだ」という確信を強めるのだ。

そんな風に捉える世の中が、「『犯罪』とは『社会の暗部に根ざした病理現象』である」などと考えるはずもない。

そういう社会に生きているからこそ、本書を読んでみてほしいと思う。犯罪者もまた、「社会の被害者」なのだと実感できるかもしれない。

著者は本書執筆までに膨大な取材を行った。その凄まじさを示す文章を2つ抜き出したい。

吉展ちゃん事件を警視庁担当記者として手掛けたかつての同僚が「あの事件を自分ほど知ってる人間はないと思い込んでいたが、実に知らないことだらけだったことを教えられた」と読後感を寄せてくれたのは、彼の立場が立場なだけに、うれしい励ましであった。

当時「吉展ちゃん事件」を担当した記者から、自分を上回る凄まじい取材だったと評価されたというわけだ。さらに、被害者遺族のこんな言葉も載っている。

これをもとにテレビ化された二時間番組が放映されたあと、担当のプロデューサーと監督が村越家に挨拶に出向いた際、遺族が「私たちは被害者の憎しみでしか事件を見てこなかったが、これで犯人の側にもかわいそうな事情があったことを理解できた」という趣旨の感想を述べられたと聞き、原作者としてたいへんありがたく、やっと救われた気持ちになった。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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