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【狂気】映画『ジョーカー』で知る。孤立無援の環境にこそ”悪”は偏在すると。個人の問題ではない

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「『悪』はほとんど単独では存在できず、概ね『環境』に依存する」と私は考えている

この映画を観る時点で私は「バットマン」シリーズを観たことがなかったし、この記事を書いている現在も観ていない。というかそもそも、『ジョーカー』が「バットマン」シリーズの外伝的な扱いの作品だということも、映画を観終えてから知った。

映画でも本でも基本的に、評判や内容などをほとんど知らない状態で触れるようにしている。先入観を持ちたくないからだ。それがプラスに働くこともマイナスに働くこともあるが、『ジョーカー』の場合はプラスに働いたと言っていいだろう。

何故なら、あらかじめ「バットマン」シリーズの外伝だと知っていたら、『ジョーカー』を観ようとは思わなかったはずだからだ。

「バットマン」シリーズの予備知識も、誰が主演なのかもよく知らないまま観に行った『ジョーカー』は、「なんかとにかく凄い」の連続だった。何を凄いと感じたのかは正直上手く捉えきれていないのだが、とにかく観てよかったと思う。

そんなわけでこの記事は、「『バットマン』シリーズについてまったく何も知らない人間が書いている」と理解した上で読んでもらえるといいと思う。

「悪」は決して、「個人」だけの問題ではない

ニュースなどで何らかの犯罪が報じられる度に考えることがある。その罪は、犯罪行為を行った者だけに帰属するのだろうか、と。

もちろん大前提として私は、「法律に則った処罰が必要だ」と考えている。犯罪者にどれだけ同情の余地があるとしても、法律が定める通りに裁き罰を与える必要がある、というわけだ。そうでなければ「法治国家」は成り立たないし、どれだけ理不尽・不合理であろうが、「法の裁き」をないがしろにしていいなどと思っているわけではない。

だから以下の主張は、「法の裁き」とは異なる次元の話だと理解してほしい。

以前、『プリズン・サークル』というドキュメンタリー映画を観たことがある。

実在する刑務所にカメラが入り長期密着するという異例の作品であり、また、他とは少し異なる取り組みをしている刑務所の日常も描かれていく。

その映画の中で囚人の1人が、「自分が被害者であることを認めてもらえなければ、加害者としての立場には立てなかった」というような言い方をしていた。その刑務所では「TC」という特殊なプログラムが行われており、その一環として、「加害者である前にまず被害者だった」と認めてもらうプロセスが存在するのだ。

その囚人の発言を聞いて、なるほど確かにその通りだろう、と感じた。家族との関係が上手くいっていなかったり、何なら暴力を振るわれたりする環境に彼はいた。そしてそんな環境で生まれ育ったから自分は犯罪者になってしまったのだと考えている。だから、「確かに自分は加害者なのかもしれないけれど、それ以前に被害者であって、それを誰かに分かってほしい」という彼の訴えは、とてもリアルなものに感じられた。

もちろん、決して良いとは言えない環境で育ったからといって犯罪が許されるわけでもないし、悪い環境で育っても犯罪に手を染めずに生きてきた者もいる。「甘えるな」と言いたくなる人もいるだろう。それでも、ごく一般的な環境で生まれ育っていたら自分だって犯罪なんかしなかった、という気持ちを抱いてしまうのは仕方ないように思うし、環境が犯罪を生んでいるのもまた事実だと思う。

だからこそ私は、「悪」は「個人」だけの問題ではない、と考えているのだ。

「悪」は単独では存在できないのではないか

「ウイルス」というのは、非常に奇妙な存在だ。「細菌」とは違い、「ウイルス」は単独では存在できない。「宿主」という、他の生命体の細胞に寄生することでしか遺伝情報をコピーできず、「宿主」が死ねば「ウイルス」も生命活動を維持することができなくなってしまうのだ。

「悪」も似たようなものかもしれない、と私は考えている。

どんな環境にも依存せず、単独で存在する「悪」も存在するだろう。私の印象では、いわゆる「サイコパス」と呼ばれる人たちが生み出す「悪」は、環境とは無関係に存在するのだと思う。しかし、そういう「悪」はとても珍しい。ほとんどの「悪」は、「宿主」に相当する環境と関係があり、その環境無くしては存在し得ないのではないだろうか。

例えば、時々思い出したようにニュースになる「バイトテロ」。飲食店などで若いスタッフが、バイト先での悪事を「仲間内しか見られないSNS」にアップし、それが流出して大事になる、というものだ。

これはまさに「SNS」という環境が存在するから起こりうる「悪」だろう。私が学生時代には、まだmixiぐらいしかSNSと呼べるものは広まっていなかった時期だったはずだが、その頃に「バイトテロ」など耳にした記憶がない。もちろん、アホみたいないたずらをする者はいたと思うが、「SNSで仲間に見せる」という動機が存在しなかった分、規模も小さく数も少なかったはずだ、と私は思う。

恐らくだが、「バイトテロ」で大騒動を引き起こした若者にしたって、SNSが存在しない世界だったら同じような行動は取らなかったのではないだろうか。

繰り返すが、だからと言って、「バイトテロ」を起こした当人が悪くないわけでも、罰せられなくていいわけでもない。あくまでも、「悪」を培養する「宿主」と言える環境の存在が、「悪」を誘引する原因の1つだと指摘したいだけだ。

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