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【情熱】「ルール」は守るため”だけ”に存在するのか?正義を実現するための「ルール」のあり方は?:映画『スペシャルズ!』

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ルールは「ルール」のためではなく「人」のために存在すべきだ

「誰かのため」はかなり難しい

私は、一応自分の中の気持ちとしては常に、「誰かのためになるように生きていきたい」と考えている。その気持ちには、嘘はないつもりだ。

しかしやはり、「誰かのため」はとても難しい。気持ちはあっても、行動に移すことは、簡単ではない。

映画の中に、こんなセリフがある。

世の中の人は二種類に分かれる。見向きもしない人と、それ以外よ。振り向いてくれる人は、ほんの一握り。だから、認可なんて関係ない。

できれば私も、「振り向く人」になりたいと思う。ただ、口で言うのは簡単だが、やはりハードルは高い。

物語は、自閉症の人たちのケアを行う無認可施設を舞台に起こる。モデルとなる自閉症ケア施設は実在するし、この物語は実話を基にしているそうだ。

彼らは日々、自閉症の人たちが起こすトラブルへの対処に大わらわだ。例えば、「電車に乗っていると非常ベルを押してしまう自閉症の人」がいる。施設のスタッフが、非常ベルを押すなと何回言い聞かせても押してしまう。そしてその度に電車は止まり、彼らは平謝りする。

しかしそれでも施設のスタッフは、自閉症の人の自由を奪わないし、何かを強制させもしない。根気よく話をし、説得し、理解してもらおうとする。もちろん、全然上手くいかないのだが、彼らは、どれだけ謝らなければならなくなるとしても、そのやり方を変えない。

出来ないよなぁ、と思う。私には、そこまでのことはやはりできない。

多くの施設では、薬で大人しくさせたり監禁したりすることが普通だそうだ。しかし、彼らはそうしない。そして、そうしないが故に、行政から目を付けられる。無認可の立場である彼らは、とても大きなジレンマに置かれているのだが、その話はもう少し後で書こう。

強制したらダメだ。説得するんだ

新人スタッフのディランに対する研修で、主人公がこんな風に言う場面がある。彼らはとにかく、自閉症の人たちを、きちんと個人として扱う。

そしてやはり、彼らのように「情熱」を持つ人間をバックアップするために「ルール」は存在すべきではないか、と私は思いたい。

「情熱」は誰かから借りてはこられない

彼らは、とにかく徹底的に自閉症の人たちと向き合い、社会の中できちんと生きていけるように寄り添おうとする。どれだけ不可能に思えても諦めず、無理を承知で成果の出ない日々を過ごし、僅かな可能性のために奮闘する。

そして、そんなスタッフの努力に報いるように、自閉症の人たちも活き活きと頑張る。残念なことだが、恐らくそれまでは、自閉症というだけで真っ当に扱ってもらえる機会は少なかったことだろう。そんな中にあって、薬や監禁という手段を使わずに、社会の中に居場所を見つける努力をしてくれるのだ。

自閉症の人たちにとっては非常に良い環境だし、長い目で見れば社会全体にとってもプラスだろうと思う。

そして、そんな献身的な活動ができるのは、「情熱」があるからに他ならない。

お金や施設や人手は、どこかから借りてくることができるかもしれない。しかし、「情熱」だけは無理だ。「情熱」は、それを内に強く強く秘めている人を見つける以外の方法はない。

映画に登場する医師は、主人公とその施設について、

彼らは、心と信念で動いている

彼らは正しかった

という風に語る。まさにその通りだと思う。

絶対に曲げない信念を持ち続けている主人公は、だからこそ無二の存在であり、そんな風に他人に移植することが不可能な「情熱」を持つ人間はサポートされるべきだ、と思う。

しかし、行政はそう判断しない。彼らの施設が無認可だからだ。施設の監査にやってきた役人は、「ほとんどの職員は無資格だそうですが」と聞く。それはとても大きな問題だ、という含みを込めて。この場面での主人公の返答は、非常に痛快であり、真理を衝いていると感じさせられる。

資格がありゃ、殴られても平気ってか?

知識だって、外から借りてこられるものだろう。もちろん、知識や資格も重要だ。軽んじているつもりはない。しかし、誰からも借りてはこられない「情熱」を持つ人間が最も適切な場所にいられるような仕組みを作ることが、行政の仕事なのではないか、とも感じる。

「ルール」は守るべきだ。しかし、例外もある

私の「ルール」に対する考え方を述べてみる。

大前提として私は、「ルールは守るべきだ」と考えている。そして、「ルールに逆らう振る舞いをしたいのであれば、ルールを変える努力をしなければならない」とも感じている。

例えば、薬物の使用などで芸能人が逮捕された際のコメントとして、「他人に迷惑を掛けていない(から別にいいじゃないか)」というようなものが出てくることがある。「薬物を買うことで暴力団の資金源になる可能性がある」など、まったく誰にも迷惑を掛けていないということはあり得ないと思うが、とりあえず迷惑を掛けていないということにしよう。

しかしその場合でも私は、「誰も傷つけていないのだからルールを破ってもいい」とは、当たり前だが思わない。「法律に反する行動を取りたいのなら、法律を変える努力をしろ」と思うからだ。

これが私の基本的なスタンスだ。

しかし、どんな物事にも常に例外はある。例えば独裁国家においては、「ルール(法律)」の方が一般的な社会常識に照らして間違っている場合も多くあるだろう。このように、「明らかにルールが間違っている」場合は例外といえる。

そして、この映画で描かれる自閉症ケア施設に関しても、例外が当てはまると考えている。それは「ルールが誰も幸せにしない」場合だ。

行政は、「自閉症ケアを行うなら認可を取れ」というルールを定める。しかし、このルールは、特に重度の自閉症を抱える本人やその家族をまったく幸せにしない。

重度であればあるほど、「認可された施設」は入所を断る。扱いが難しいからだ。適切な扱いができなければ認可の基準を満たせず、認可が取り消される可能性だってある。

施設に断られれば、家庭に閉じ込められることになり、正しいケアやサポートが得られないまま、本人もその家族も疲弊してしまう。そもそも家庭で対処できるようなレベルではないのだ。だから、無認可でも受け入れてくれる施設を探す。

つまり、「重度の自閉症を扱う施設」はどうしても無認可にならざるを得ない、ということになる。行政がルールを定めたことによって、このような問題が起こっているというわけだ。

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