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【偉業】「卓球王国・中国」実現のため、周恩来が頭を下げて請うた天才・荻村伊智朗の信じがたい努力と信念:『ピンポンさん』

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驚異のスポーツ選手・荻村伊智朗のことを私は知らなかった。『ピンポンさん』で描かれる、その凄まじい生涯

私は本書を読むまで、荻村伊智朗という人物のことを知らなかった。彼が選手として活躍していたのは、今から70年近く前の1950年代のこと。とすれば恐らく、少なくない日本人が、彼の名前を知らないのではないかと思う。卓球という、野球やサッカーと比べればマイナーな競技の選手であったことも、その状況に拍車をかけるはずだ。

しかし本書を読んで、「これほど凄まじい人物を知らないのは恥ずかしい」と思わされた。彼は選手としても凄かったが、実は引退後の方がもっと凄まじい。その事実を併せて考えると、これほどの功績を成したスポーツ選手は他にいないようにも感じられる。いや、スポーツ選手に限らずとも同じことが言えるかもしれない。

かつて新聞紙上で行われた、「20世紀を代表するスポーツ選手は誰か?」というアンケーに関するエピソードが本書に載っている。その当時、サッカー選手の中田英寿がスポーツ界で最も注目を集めていたのだが、そのアンケートで彼は16位。そして荻村伊智朗はなんと15位だっのだ。このアンケートの話は本書の冒頭で書かれているため、荻村伊智朗について知らなかった私は、15位でもかなり高いと感じた。しかし本書には、「荻村伊智朗が15位なんて納得がいかない」と憤る人物が紹介されている。「1位の長嶋茂雄より、荻村伊智朗の方がもっと凄い」というのだ。

「これまで一度も名前を聞いたことのない人物が、誰もが知る長嶋茂雄よりも上だ」という主張をすんなり受け入れることはやはり難しい。しかし本書を読めば誰もが、「確かにそう言われて然るべき存在だ」と感じるのではないかと思う。大げさではなく、ノーベル平和賞を受賞してもいいのではないかと思わされた。

まずは内容紹介

本書の内容を紹介する形で、まずは荻村伊智朗の生涯について触れていこう。

1954年、22歳の時に彼は世界ランク1位になっている。しかし、卓球を始めたのは高校1年生の時。つまり、たった5年で世界の頂点に立ったのである。

1949年、都立第十高の2年生だった荻村は、卓球部の主将を務めていた。本書の物語はここからはじまる。中学時代は野球部でエースだったが、身体が小さくプロにはなれないだろうと考え辞めてしまう。都立第十高には当時卓球部は存在していなかったのだが、どうにか創部しようと先輩たちが画策している最中だった。そして先輩たちの美しいラリーに惹かれた荻村も、創部に向けて共に動くことに決める。

そんな風にして、荻村伊智朗の凄まじい生涯は始まっていったのだ。

彼の人生を語るのに欠かすことのできない人物がいる。2008年まで吉祥寺で卓球場を経営していた上原久枝だ。彼女の存在抜きには、荻村伊智朗の世界一も、その後の活躍もあり得なかったに違いない。

久枝は家の事情から、当時の女性には珍しく職業婦人として働いていた。しかし、戦争を機に仕事を離れ、専業主婦となる。元々働きに出ていた彼女は、専業主婦として無為に過ごす日々に焦りを感じていた。そんな折、たまたま手に取った婦人雑誌に、「函館に住む主婦が自宅で開いた卓球場が人気」という記事を見かける。

卓球場なら、自分にも続けられるかもしれない。そう考えた彼女は夫を説得、吉祥寺に卓球場を開いた。そしてここで2人は出会ったのである。

創部間もない卓球部には当然不十分な設備しかなく、また練習時間も上手く確保できなかった。そこで荻村は、同世代の卓球少年たちと同じく、町中にある卓球場へと向かう。母子家庭で育った彼は、母親の蔵書を勝手に売りさばいて費用を捻出していた。そんな折、吉祥寺に新しく卓球場が出来たという噂を耳にする。荻村は立ち寄ってみようと考え、そこで久枝に声を掛けられたというわけだ。

荻村伊智朗の練習は、凄まじかった。やせっぽっちだった少年は、卓球にすべての時間を注いだのである。彼は、周囲のアドバイスを一切聞こうとしなかった。練習の効率を上げるための工夫を含め、すべて自分で考えたのだ。そんな荻村は、妥協というものを知らなかったため傲慢だと見られてしまい、周囲と打ち解けられないでいた。しかし久枝にだけは懐いたという。そして困っている人がいると助けてしまいたくなる性分の久枝もまた、孤立し苦悩を抱えながら卓球に邁進する荻村を献身的にサポートしたのである。

久枝の卓球場には次第に、荻村を中心とした様々な人たちが集まるようになった。そして、卓球部のない大学に進学した彼は、久枝の卓球場のメンバーで作ったチームで大会に出場するようになっていく。

こうして荻村伊智朗は、卓球を始めて僅か5年と7ヶ月という短期間で、圧倒的な強さを見せつけて世界一となったのである。

しかし、凄まじい結果を出す一方で、他人にも厳しさを突きつけるやり方や孤高を貫くスタイルには、常に反発も付きまとった。後に荻村伊智朗はスポーツ界にとんでもない貢献を成すのだが、選手時代に関しては悪評ばかり出てくる。周囲にいる人間とは相当軋轢を抱えていたようだ。しかし、勝つことに異常にこだわり、さらに日本の卓球の未来を常に見据えて行動し続けた荻村には、迷いはなかった。

荻村伊智朗は、選手時代以上に、引退後の活躍が目覚ましい。後で詳しく触れるが、彼は国際卓球連盟会長として「米中ピンポン外交」を行うなど、スポーツを通して政治的な軋轢を乗り越えさせようと奮闘したのだ。周恩来からも一目置かれていたというのだから、その存在感がどれほど圧倒的だったか理解できるだろう。

荻村伊智朗は1994年に62歳で亡くなった。その際メディアは、「日本スポーツ界は天才的才能のリーダーを失った」「戦後日本の希望の星」「『スポーツを通じ平和』が信念」と伝えたそうだ。

類を見ない存在感を放った巨星の生涯を余すところなく伝える1冊である。

スポーツ外交で手腕を発揮する

たった5年で世界一になったことももちろん凄まじいが、やはり荻村伊智朗の生涯においては、「引退後の功績」の方が遥かに大きいと言えるだろう。「いち卓球指導者」に留まらない、世界平和さえ見据えた立ち回りにはやはり驚かされてしまった。

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