【不満】この閉塞感は打破すべきか?自由意志が駆逐された社会と、不幸になる自由について:『巡査長 真行寺弘道』(榎本憲男)
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「拭えない閉塞感」と「自由意志のない社会」
どうしようもなくつまらない
おそらく私たちは、非常に恵まれた時代に生きているはずだ。日本においてもかなり格差が広がっているとはいえ、多くの人は、「明日死ぬかもしれない危険」や「明日食べるものがない貧困」などからは解放されているだろうし、お金を掛けずに楽しめる娯楽も溢れている。様々な事情を抱えた、辛い境遇に置かれた人も世の中にたくさんいることは理解した上で、それでも、一昔前と比べれば、社会全体としては恵まれた環境が整備されている、と言っていいだろう。
ただ、同時に、圧倒的なつまらなさを感じている人も多いのではないかと思う。私もその一人だ。別に差し迫った問題に直面しているわけではないし、趣味もないではない。友人も多くはないがいるし、コロナウイルスが収束すればそれなりに人間関係も復活していくだろう。客観的に見れば、平均的か平均よりちょっと下にいる、まあどこにでもいるような平凡な人間だ。
自分が感じるつまらなさは、自分が平凡なせいだろうか、と考えることも当然ある。自分にもっと何か才能がある、あるいは、才能はなくても何かにのめり込む、みたいなことでもあれば、つまらなさは解消されるだろうか、と。
しかし、本当にそうだろうか?
自由意志を奪われた世界
あぁ、なるほど、確かにその通りかもしれない、と感じる。
「自由に生きる」という言葉に対して、どういうイメージを持つだろうか?様々なイメージがあるだろうが、非常に大雑把に言えば、「やりたいことがやれる」ということになるだろう(私は、「やりたくないことをやらなくて済む」ことの方により強く自由を感じるが、一旦その話は脇に置こう)。
しかしでは、その「やりたいこと」に、私たちはどのようにたどり着いているだろうか。そう考えた時、感じるだろう。私たちは結局、GoogleやFacebookやTwitterなどを通じて、自分の「やりたいこと」にアクセスしているのだ、と。
もちろん、そうではないケースは容易に想定できる。特に子供時代はそうだろう。親からさせられていた習い事から興味を持ったとか、学校の教科書を読んで文豪の作品に興味を持つなんてこともあるはずだ。しかし大人になってインターネットへのアクセスが当たり前になればなるほど、そういう機会は減っていく。
インターネットを通じて「やりたいこと」にアクセスして何が悪いのかと思うだろう。いや、悪いと言いたいわけではまったくない。全然悪くはない。しかし果たして、その選択に「自由意志」が介在していると言えるのか、という問題を提起したいだけだ。
Googleの検索窓に打ち込んだキーワードは収集されている。そしてそれによって、「あなたはきっとこんなことに興味がおありでしょうね?」と広告が表示される。あるいは、SNSが発達したことによって私たちは、「誰かに見せるための自分」を当たり前に生きるようになっていく。
さて、これらの行動は果たして、「自由意志」によるものだと言えるだろうか?
そして結局のところ、「自由意志」が社会から失われてしまったことが、私たちが否応なしに感じる「閉塞感」と関係しているのではないか、と思うのだ。もちろん、インターネットが世界を席巻する以前だって閉塞感を抱く人はいただろうし、テレビや様々な広告が人々の生活を左右させてきたことだろう。しかし、そういう時代と今とでは、何かが決定的に違うように感じてしまう。
以前であれば、テレビや広告に「踊らされている」という視点を持つことは、そこまで難しくなかったのではないかと思う。これは、「自分が檻の中にいることを自覚できて、その檻の外に自らの意思で出ることができる」ということであり、ここに私は「自由意志」を感じる。
しかし今の時代は、「自分が檻の中にいることも自覚できない」し、だからこそ「自分の意思で檻の外に出られもしない」という世の中ではないかと感じるのだ。これは決定的に違う社会だと言えるだろう。
「『自由意志』は手放すべきではない」と言えるのか?
ここまでで、私たちが否応なしに感じてしまう「閉塞感」そのものと、その正体が「自由意志の喪失」であることについて触れた。しかし、こう感じる人もいるはずだ。
閉塞感はともかくとして、自由意志を失った社会に生きることって不幸なわけ?
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